第61話 牢死

文字数 1,585文字

「手おくれとな? 余の沙汰が聞けぬと申すか? 」

  家斉は、定信につかみかかった。

「公方様。落ち着いてくだされ」
 
 傍らで、2人の様子を固唾を飲んで

見守っていた定之助があわてて、

家斉のふり上げた腕を寸前で押さえた。

「こやつは、一度、痛い目に遭わせないとわからぬ」
 
 家斉は、定之助の手を振りほどこうとしたが、

定之助は頑として動かなかった。

「怒り任せとはいえ、御上意ならば従いざる得ません。

なれど、首座としての責任を全うさせてからにして頂きたく存じます。

公方様が、恩赦を与えた事にして、無罪放免に致します故、

改めて、沙汰をお出しくだされ」
 
 定信が深々と頭を下げた。

「たわけ者。余が怒り任せに、そちを罷免させると思うか? 

恩赦でも何でも良い故、ただちに、赦免致せ」
 
 家斉は、鬼の形相で言い放つと足早に御座之間を後にした。

 数日後。家斉が、日課の行水を終えて

【御休息之間】の中に入ろうとした時、

定之助が、あわてた様子で駆け寄って来た。

「公方様。一大事でござる」

「何事じゃ、騒々しい」

 家斉は、勢い良く着座すると手ぬぐいで顔や手をふき出した。

「本多利明が、青島俊蔵と

最上徳内の釈放を求める書状を幕閣に提出しました」
 
 定之助が神妙な面持ちで告げた。

「弟子の窮地を見過ごすわけはないとは思っていたが、

ついに動いたか」
 
 家斉は思わずひざを打った。

「なれど、時、すでにおそしです。

今朝、早く、青島俊蔵が牢死したとの報告がござった」
 
 定之助が浮かない表情で告げた。

「牢死とな? 越中の奴め。

青島を牢死させるとはまかりならぬ」
 
 家斉は地団駄を踏んだ。

「恐れながら、側用人の本多忠籌を横目として、

越中殿につけるべきと存じます。

本多殿は早くから、海防積極論を説き、

蝦夷地を天領として開拓を進め

赤蝦夷の南下に対抗するべきだと主張しています。

もはや、越中殿に、太刀打ち出来るのは

あのお方しかおりませぬ」
 
 定之助が思わぬ提案をした。

「そうじゃのう。越中は、今まで通り、

蝦夷地は、松前藩が統治するべきだと押し切っておる。

幕閣の中に、本多以外、蝦夷地開発の再開に

賛同する者がおれば別だが、

1人で立ち向かうのは無理な話じゃ」
 
 家斉はアゴをさすりながら言った。

「美濃国大垣藩主の戸田氏教を覚えていますか? 

あの者を老中に登用してはいかがでござるか? 

父の松平武元殿に似て

聡明で実直な男だと聞いております」
 
 定之助は、対抗馬として新たな人材の登用を進言した。

「本多に、戸田か。あの2人ならば、申し分ないが、

越中と互角に意見を交わせる

立場にならねば太刀打ち出来ぬ」
 
 家斉は、まんざらでもない風に言った。

 かつて、田沼意次が、権勢を誇ったのも

意次を支持する派閥があったからだ。

今の家斉には、老中首座として活躍する定信に

太刀打ち出来るような味方が幕閣にはいない。

定信が、老中首座でいる限り、

どんなに、正論を説いたところで

家斉の意見はまず、通らないだろう。
 
 戸田氏教は、治済が、御三家に

老中首座の適任者として挙げた

定信以外の3名の内の1人だ。

「聞いた話では、越中殿は、石門心学を学ばれたとか。

わしが、本多殿に、石門心学を通じて

越中殿と近しくなるよう進言致しましょう」
 
 定之助が言った。

「石門心学とは、いったい、どんな学問なのじゃ? 」
 
 家斉は、初めて聞く学問に関心を示した。

「石門心学とは、

日本の江戸時代中期の思想家、石田梅岩を開祖とする

倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教でござる」
 
 定之助がえへん面で答えた。

「幕閣には、越中の右腕と言われている

老中の松平信明や側衆の加納久周がおる。

何といっても、強敵は彼奴じゃの」
 
えへん 家斉は、余韻を残しせんべいを

思い切り音を立ててかじった。

「彼奴とは、いったい、何方の事でござるか? 」
 
 定之助が、家斉に顔を近づけると小声で訊ねた。

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