第19話 水戸の近習
文字数 2,191文字
「大納言様。鶴千代君が、大日本史の話を持ち出して来たら、
それとなく、話を他に反らすのですぞ。
長居せずに、早々に、お帰りくだされ」
木村は、念を押した上、西丸御書院番徒士頭の
長谷川平蔵に警固をさせる事にして御忍を黙認した。
家斉は、意気揚々と、水戸徳川家下屋敷へ向かった。
水戸徳川家下屋敷は、大川沿いにある。
大川に架かる大川橋を渡れば、参拝客で賑わう浅草寺の門前町に到る。
同じ年生まれの鶴千代とは、物心ついた頃から、
互いの御屋敷を行き来する仲だ。
春になると、大川沿いの並木道に植えられた桜が満開になる。
水戸徳川家下屋敷は大川に面している事もあり、
毎春、庭にて、花見の宴が開かれる。
一橋家に居た頃、家斉も、父と共にお呼ばれに預かった。
夏は、川から吹く風が、屋敷の中に入り涼しい。
家斉は、屋敷が見えて来た時、
楽しかった頃を思い出して胸がいっぱいになった。
「大納言様。遠慮は入りません。
我が家と思うてゆるりとお過ごしあれ」
鶴千代は、家斉を庭が見渡せる広間へ案内した。
「この者は、何奴じゃ? 」
家斉は、少し後から、茶道具を抱え持って現れた
若者に見覚えがないため不信に思い、
鶴千代にその若者の素性を訊ねた。
「父上が、それがしの近習として召し抱えた熊蔵でござる。
茶の湯の心得があると聞いて召し出した次第」
鶴千代は、茶碗をまわしながら答えた。
「背は小さくやせ過ぎじゃ。これでは、いざという時、鶴千代を守れぬ」
家斉は、遠慮なしに熊蔵をつぶさに観察した。
「熊蔵は、ああ見えて、剣術や柔術に優れている故、大事ない。
それより、先日、鷹司輔平殿から、父上宛てに届いた書状に、
帝が、公方様の病を知り、御心地を痛めておられると書いてありましたぞ」
鶴千代は、お茶をたてる熊蔵を見ながら言った。
「今は、床に臥せっておられるが、じきに、良くなられる。
故に、案ずる事はないと鷹司には伝えよ」
家斉がお茶を一口飲むと言った。
「天明の大飢饉で、江戸だけでなく、
京や大阪も、大変な事になっているとの事で、
帝は、江戸では、困窮する民に対し、
如何様に対処しておるのか知りたがっているそうでござる」
鶴千代は、真剣な表情で述べた。
「大納言様。御所御用達の菓子は、お口に合いますか? 」
熊蔵がふいに、家斉に訊ねた。
「美味じゃ」
家斉は、菓子を一口でたいらげると答えた。
「大納言様の所存は如何に? 」
鶴千代は身を乗り出すと、家斉に訊ねた。
「何も聞くな。世子の分際で、幕政に口を挟むわけにはまいらぬ」
家斉が、手についた粉をはらいながら言った。
「帝は聡明な御仁でござる。何もご存じないというのはどうも信じられぬ。
恐らくは、江戸の様子をお尋ねになったのは、
幕府に対して、天明の大飢饉により
困窮した民への救済を促しておられるのでは? 」
鶴千代が興奮気味に言った。
「して、うぬは何処の流派なのじゃ? 」
家斉は、鶴千代の話を無視するかのように熊蔵に話しかけた。
「松尾流でございます」
熊蔵が遠慮気に答えた。
「茶の湯は不調法でござる。流派といえば裏千家しか知らぬ」
家斉が苦笑いした。
「大納言様。松尾流は、松尾流二代目家元の頃から、
尾張藩の御用を務め、京師においては、
公家の鷹司家と近衛家より殊遇を受けております。
当家には、葵の御紋入りの茶道具が代々、
当主に伝えられていますが一橋家にはござらんか? 」
急に、鶴千代が家斉を挑発する態度に出た。
「なくて悪かったな」
家斉は思わずムッとした。
「大納言様。私を御物茶師に召し抱えて頂きたい」
突然、熊蔵が、その場に平伏して願い出た。
「これ、何を申す? 立場をわきまえよ」
鶴千代が、熊蔵をきつく咎めた。
「何故、御物茶師になりたい? 申してみよ」
家斉は、熊蔵に訊ねた。
「私は、物心つく前に、尾張の松尾流家元の養子となり、
尾張で育ちましたが、わしの出白はもとより、この江戸でございます。
御三家の家臣になれた事は、家門の誉れではございますが、
やはり、私は、茶師の方が性に合っている。
茶師として、幕府にお仕えしたい。何卒、お聞き届けくだされ」
熊蔵が深々と頭を下げた。
「その業前ならば、申し分はなかろう。空きがあれば推挙してやる」
家斉が安請け合いして言った。
「よしなにお頼申します」
熊蔵が明るい声で言った。
「抜け出して来た故、長居は出来ぬ。そろっと戻ると致す」
家斉は部屋を出ると玄関へ歩き出した。
「大納言様。お待ちくだされ。お見送り致します」
鶴千代はあわてて、家斉の後を追いかけた。
「鶴千代。熊蔵は生まれ持っての茶師じゃ。
彼奴の茶を飲めばわかる。
故に、此度の一件は穏便に済ませて欲しい」
家斉は、鶴千代の肩に手を置くと言った。
「大納言様が、御心地が広くて、熊蔵も、命拾いしたでござるな」
鶴千代は、曖昧に微笑んだ。
家斉は、鶴千代に見送られて帰路についた。
「して、御物御茶師とは何なのじゃ? 」
家斉は、西丸御殿に入る前、
ふと、思い出したように長谷川に訊ねた。
「朝廷や幕府御用達の茶を調達する茶師の事を御物御茶師といいます。
それがしは、熊蔵の素性が、いささか気になります。
御庭番に探らせますか? 」
長谷川が、家斉に耳打ちした。
「かまわぬ。御三家が、素性のはっきりせぬ者を仕えさせるわけがなかろう」
家斉が肩をすくめた。
それとなく、話を他に反らすのですぞ。
長居せずに、早々に、お帰りくだされ」
木村は、念を押した上、西丸御書院番徒士頭の
長谷川平蔵に警固をさせる事にして御忍を黙認した。
家斉は、意気揚々と、水戸徳川家下屋敷へ向かった。
水戸徳川家下屋敷は、大川沿いにある。
大川に架かる大川橋を渡れば、参拝客で賑わう浅草寺の門前町に到る。
同じ年生まれの鶴千代とは、物心ついた頃から、
互いの御屋敷を行き来する仲だ。
春になると、大川沿いの並木道に植えられた桜が満開になる。
水戸徳川家下屋敷は大川に面している事もあり、
毎春、庭にて、花見の宴が開かれる。
一橋家に居た頃、家斉も、父と共にお呼ばれに預かった。
夏は、川から吹く風が、屋敷の中に入り涼しい。
家斉は、屋敷が見えて来た時、
楽しかった頃を思い出して胸がいっぱいになった。
「大納言様。遠慮は入りません。
我が家と思うてゆるりとお過ごしあれ」
鶴千代は、家斉を庭が見渡せる広間へ案内した。
「この者は、何奴じゃ? 」
家斉は、少し後から、茶道具を抱え持って現れた
若者に見覚えがないため不信に思い、
鶴千代にその若者の素性を訊ねた。
「父上が、それがしの近習として召し抱えた熊蔵でござる。
茶の湯の心得があると聞いて召し出した次第」
鶴千代は、茶碗をまわしながら答えた。
「背は小さくやせ過ぎじゃ。これでは、いざという時、鶴千代を守れぬ」
家斉は、遠慮なしに熊蔵をつぶさに観察した。
「熊蔵は、ああ見えて、剣術や柔術に優れている故、大事ない。
それより、先日、鷹司輔平殿から、父上宛てに届いた書状に、
帝が、公方様の病を知り、御心地を痛めておられると書いてありましたぞ」
鶴千代は、お茶をたてる熊蔵を見ながら言った。
「今は、床に臥せっておられるが、じきに、良くなられる。
故に、案ずる事はないと鷹司には伝えよ」
家斉がお茶を一口飲むと言った。
「天明の大飢饉で、江戸だけでなく、
京や大阪も、大変な事になっているとの事で、
帝は、江戸では、困窮する民に対し、
如何様に対処しておるのか知りたがっているそうでござる」
鶴千代は、真剣な表情で述べた。
「大納言様。御所御用達の菓子は、お口に合いますか? 」
熊蔵がふいに、家斉に訊ねた。
「美味じゃ」
家斉は、菓子を一口でたいらげると答えた。
「大納言様の所存は如何に? 」
鶴千代は身を乗り出すと、家斉に訊ねた。
「何も聞くな。世子の分際で、幕政に口を挟むわけにはまいらぬ」
家斉が、手についた粉をはらいながら言った。
「帝は聡明な御仁でござる。何もご存じないというのはどうも信じられぬ。
恐らくは、江戸の様子をお尋ねになったのは、
幕府に対して、天明の大飢饉により
困窮した民への救済を促しておられるのでは? 」
鶴千代が興奮気味に言った。
「して、うぬは何処の流派なのじゃ? 」
家斉は、鶴千代の話を無視するかのように熊蔵に話しかけた。
「松尾流でございます」
熊蔵が遠慮気に答えた。
「茶の湯は不調法でござる。流派といえば裏千家しか知らぬ」
家斉が苦笑いした。
「大納言様。松尾流は、松尾流二代目家元の頃から、
尾張藩の御用を務め、京師においては、
公家の鷹司家と近衛家より殊遇を受けております。
当家には、葵の御紋入りの茶道具が代々、
当主に伝えられていますが一橋家にはござらんか? 」
急に、鶴千代が家斉を挑発する態度に出た。
「なくて悪かったな」
家斉は思わずムッとした。
「大納言様。私を御物茶師に召し抱えて頂きたい」
突然、熊蔵が、その場に平伏して願い出た。
「これ、何を申す? 立場をわきまえよ」
鶴千代が、熊蔵をきつく咎めた。
「何故、御物茶師になりたい? 申してみよ」
家斉は、熊蔵に訊ねた。
「私は、物心つく前に、尾張の松尾流家元の養子となり、
尾張で育ちましたが、わしの出白はもとより、この江戸でございます。
御三家の家臣になれた事は、家門の誉れではございますが、
やはり、私は、茶師の方が性に合っている。
茶師として、幕府にお仕えしたい。何卒、お聞き届けくだされ」
熊蔵が深々と頭を下げた。
「その業前ならば、申し分はなかろう。空きがあれば推挙してやる」
家斉が安請け合いして言った。
「よしなにお頼申します」
熊蔵が明るい声で言った。
「抜け出して来た故、長居は出来ぬ。そろっと戻ると致す」
家斉は部屋を出ると玄関へ歩き出した。
「大納言様。お待ちくだされ。お見送り致します」
鶴千代はあわてて、家斉の後を追いかけた。
「鶴千代。熊蔵は生まれ持っての茶師じゃ。
彼奴の茶を飲めばわかる。
故に、此度の一件は穏便に済ませて欲しい」
家斉は、鶴千代の肩に手を置くと言った。
「大納言様が、御心地が広くて、熊蔵も、命拾いしたでござるな」
鶴千代は、曖昧に微笑んだ。
家斉は、鶴千代に見送られて帰路についた。
「して、御物御茶師とは何なのじゃ? 」
家斉は、西丸御殿に入る前、
ふと、思い出したように長谷川に訊ねた。
「朝廷や幕府御用達の茶を調達する茶師の事を御物御茶師といいます。
それがしは、熊蔵の素性が、いささか気になります。
御庭番に探らせますか? 」
長谷川が、家斉に耳打ちした。
「かまわぬ。御三家が、素性のはっきりせぬ者を仕えさせるわけがなかろう」
家斉が肩をすくめた。
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