第50話 ぼやさわぎ

文字数 1,218文字

「先に、中へ入っていてくだされ。

お出しする物が一品足らぬ故、急ぎ、御膳所へ伝えに参ります」
 
 お伊曰は、御膳所に向かうふりをして、

お園を先に、部屋の中へ入るよう促した。

お園は首を傾げながらも、先に、部屋の中へ入った。

お伊曰は、周囲に誰もいない事を確認すると、

懐に隠し持っていた毒を取り出した。

お伊曰が毒を汁椀の中に、入れようとしたその瞬間だった。

「火事にございます。早く、お逃げくだされ」
 
 奥向の方から、きな臭い匂いが漂って来たと同時に、

金切り声が聞こえた。

お伊曰はその声に驚き、毒を懐にしまった。

「何事じゃ? 」
 
 先に、部屋の中へ入っていたお園が、

襖を半分開けて顔だけ出した。
 
「奥向が火事のようです」
 
 お伊曰は青い顔で答えた。

「御膳は、私がお出しする故、

そなたは、様子を見て参るが良い」
 
 お園はしっかりとした口調で告げた。

 お伊曰は助かったと思い、奥向へ走った。

火事が起きなければ、今頃、人を殺していた。

奥向に着くと、長局の奥女中たちの相部屋がある方から

黒い煙が出ているのが見えた。

「火元は何処なのです? 」
 
 お伊曰は、ちょうど、逃げて来た奥女中を捉まえると訊ねた。

「御次部屋のようですが、火之番が、

消し止めましてボヤで済んだそうです」
 
 その奥女中が息を弾ませながら答えた。

「教えてくれてありがとう」
 
 お伊曰は、その奥女中に礼を言うと

火元の【御次部屋】を念のため見に行った。

【御次部屋】の前には、野次馬の人だかりが出来ていた。

お伊曰は、野次馬の人だかりから、

抜け出して来た奥女中と、危うくぶつかりそうになった。

とっさに、その奥女中の顔を見た。

ぶつかりそうになったのは、

奥女中ではなく蓮光院付の女中だった。

「お伊曰殿ではありませぬか。ここで、何をしておられる? 」
 
 蓮光院付御中臈のお伝は、

お伊曰に気づくと一瞬、驚いた表情をしたが、

すぐに、能面のようなすました顔に戻りお伊曰を問いただした。

「お伝殿こそ、如何なされましたか? 」
 
 お伊曰は、ムカッときて言い返した。

「奥向が火事だと聞き、様子を見に参ったの次第」
 
 お伝は、明らかに、何かを隠しているように見えた。

「桜田屋敷から、わざわざ、参ったですか? 」
 
 お伊曰は、お伝の顔をのぞき込むと訊ねた。

「私は、これにて、失礼致します」
 
 お伝は足早に、その場を立ち去った。

【二丸御殿】に戻ろうと、廊下を歩いている時だった。

襷掛けをした奥女中たちが、向かい側から走って来た。

「蓮光院付御女中のお伝を見かけなかったか? 」
 
 その内の1人が、すれ違いようにお伊曰に訊ねた。

「お伝殿でしたら、桜田屋敷へ戻りましたが、

お伝殿が、如何されましたか? 」
 
 お伊曰は聞き返した。

「御次部屋から、火が出る直前、

お伝が出て来るのを見た者がおる故、

事情を伺うため捕えに参ったのだが、

桜田屋敷に戻ったのか。教えて頂いて礼を申す」
 
 その奥女中はお辞儀すると、仲間と共に桜田屋敷へ向かった。


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