第41話 母との会話
文字数 2,601文字
「わしは、公方様の御為に、正室を差し出しました。
忠義は、十分、果たしたかと存じます」
治済が神妙な面持ちで告げた。
「お考え直し頂けぬか? 」
家斉は、治済の顔をのぞき込むようして訊ねた。
大崎もまた、於富と同じ経緯で
徳川治済の側室となる道を歩もうとしているのだ。
「貴方様の母御を娶って以来、
側室を持たなかったのは、無用な争いを避ける為じゃ。
貴方様の母御が、西丸に遷り、
父であるわしはひとり、孤独な日々を過ごしている。
この孤独を癒す事が出来る者は
気心が知れた女人しかおらぬ。
近頃、ひとり寝が辛くてのう。
父を哀れと思うならば、頼みを聞き入れてくれまいか? 」
ひとり寝が辛いから、妻を裏切り
気心が知れた女を傍に置きたいと願う父が、
家斉の目には哀れに映った。
治済の作戦は成功した事になるが、
家斉は、幼い頃から傍にいて見守ってくれていた
大崎を手放す気はなかった。
「いくら、父上のお望みでも、余の一存で
聞き入れる事は出来かねます。
しばし、時を頂きたい」
家斉は冷静を装ったが、内心、心がざわついた。
急に、治済が、若さに陰りのある孤独な男に見えてきた。
「松心尼」
家斉は、御坊主を呼んだ。
少しして、障子が開き、
剃髪し男物の羽織と袴を着用した中年の女が姿を現した。
「今宵は、奥泊まりを致す。奥向へ伝えよ」
家斉は落ち着かない様子で言った。
「承知しました。お相手は、どなたをご所望でございますか? 」
松心尼がすました顔で訊ねた。
「今宵は、於富様をお呼びせよ」
家斉が咳払いして言った。
「公方様、母御との同衾だけはなりませぬ」
松心尼は顔色を変えた。
「たわけ者。母上と交わるとでも思ったか?
母上と夜通し話がしたい故、そう伝えよ」
家斉は顔を赤らめた。
「承知しました」
松心尼は、勢い良く、障子を閉めた。
しばらくして、定之助がやって来た。
「いざ、参らん」
家斉は、定之助を随え御鈴廊下を渡ると【御小座敷】へ入った。
【御小座敷】に入ると、於富が待っていた。
「母御をお召し出しとは、前例のない事にございます」
傍に仕えていた高丘が、怪訝な表情で苦言を呈した。
「今宵は、母上と2人きりで話しがしたい故、
そちらは、席を外してもらえるか? 」
家斉は穏やかに命を下した。
「皆の者。下がるぞ」
高丘は、周囲にいた者たちを率いて御小座敷を出て行った。
「折り入って、私に、お話とは何でございますか? 」
於富は、家斉と2人きりになると傍に寄り添った。
「父上が、大崎局を貰い下げたいと願い出ました」
家斉が神妙な面持ちで答えた。
「それは、まことの話でございますか? 」
於富は、動揺を隠し切れずお茶をこぼした。
「まことの話でございます」
家斉は、於富の膝を布巾でふいてやりながら言った。
「大崎局を側室になさる気か」
於富は唇をかみしめた。
「まだ、決まったわけではござらぬ。
中奥と一橋家の近習衆の合意も得ておりませぬ」
家斉が告げた。
「父が子に、側室を貰い受けようとするとは、
さぞかし、貴方様も驚いた事であろう。すまぬ。
母がいたらぬせいで、貴方様の心までかき乱してしまった」
於富が、家斉を優しく抱き寄せた。
「母上こそ、お辛いでしょう。母上が、拒まれるのであれば断ります」
家斉は、於富の顔を見つめると言った。
「いえ、公方様の仰せの通りに致します」
於富は、決心を固めたように告げた。
於富は、床に入るとすぐ、寝息をたてた。
家斉は、於富の傍らに横になると目を閉じた。
しかし、脳裏に浮かんでくるのは、
治済と大崎が、仲睦まじく過ごす姿であった。
大崎を女として見た事がなかったが、
大崎は、隣に眠る母より若くて美しい。
治済が、傍に置きたいと望む気持ちもわからなくもない。
大崎は、家斉の乳母となったばかりに
結婚も出産も経験しないまま死ぬまで大奥に居るはめになった。
一橋家の御女中だったならば、結婚の機会があったかもしれない。
もし、大崎が望んでいるならば、大崎を不幸にする事にならないか?
家斉は、悩みに悩み抜いた末、
朝一番に、大崎を呼び出して本心を聞き出す事にした。
翌朝。家斉は、一睡も出来ずに朝を迎えた。
於富は、迎えに上がったお付の御中臈を随えて【御小座敷】を後にした。
「公方様。お呼びにございますか? 」
於富と入れ替わりに、障子の向こうから大崎の声が聞こえた。
家斉は、自ら障子を開けさせた。
家斉は、大崎を中に引き入れると
【御小座敷】の前に控えていた
御中臈にお人払を命じ障子をきっちり閉めた。
「面を上げよ」
家斉が静かに告げた。
「昨夜は、母御と久方ぶりにお過ごしになったと聞きました。
何故、私を召し出されたのでございますか? 」
大崎がおそるおそる、顔を上げると訊ねた。
「民部卿が、そなたを貰い下げたいと申し出た。
そなたも同意の上なのか? 」
家斉が冷静に訊ねた。
「よもや、まことに、公方様へ願い出るとは思いもよりませんでした」
大崎は、決り悪そうに言った。
「於富様は、民部卿の正室故に意見をお伺いした」
家斉が咳払いして言った。
「於富様には、まことに、申し訳ない事を致しました」
大崎は青い顔で言った。
「於富様は、余に従うと申された。
不公平であってはならぬと考え、そなたを呼んだのじゃ。
して、何か申したい事はあるか? 」
家斉は、大崎の顔を覗き込むと訊ねた。
「私も、公方様の仰せの通りに致す所存でございます」
大崎が深々と頭を下げた。
「左様か。ひとつ、聞くが正直に答えるが良い」
家斉は、大崎の傍らに座ると小声でささやいた。
「何なりとお訊ねくだされ」
大崎が神妙な面持ちで告げた。
「父上は、そちにお手をつけたのか? 」
家斉が慎重に訊ねると、大崎は一瞬、肩をびくつかせた。
「やはり、そうか。そなたは、まことに、正直者じゃのう。
1度きりなのだろうな? 」
家斉が訊ねた。
「お許しくだされ。あれは、過ちでございました。二度と致しませぬ」
大崎が、畳に額を押しつけると必死に詫びた。
「そなたが悪いのではない。
悪いのは、そちを我物にしようとした民部卿の方じゃ。
誰に聞かれても何もないと白を切るのじゃ。
そちの名誉を守るためにもそれが良い。
認めたら、そちも民部卿もただではすまされぬ」
家斉が、大崎に耳打ちした。
「公方様。お気遣い頂き感謝致します」
大崎が思わず涙ぐんだ。
忠義は、十分、果たしたかと存じます」
治済が神妙な面持ちで告げた。
「お考え直し頂けぬか? 」
家斉は、治済の顔をのぞき込むようして訊ねた。
大崎もまた、於富と同じ経緯で
徳川治済の側室となる道を歩もうとしているのだ。
「貴方様の母御を娶って以来、
側室を持たなかったのは、無用な争いを避ける為じゃ。
貴方様の母御が、西丸に遷り、
父であるわしはひとり、孤独な日々を過ごしている。
この孤独を癒す事が出来る者は
気心が知れた女人しかおらぬ。
近頃、ひとり寝が辛くてのう。
父を哀れと思うならば、頼みを聞き入れてくれまいか? 」
ひとり寝が辛いから、妻を裏切り
気心が知れた女を傍に置きたいと願う父が、
家斉の目には哀れに映った。
治済の作戦は成功した事になるが、
家斉は、幼い頃から傍にいて見守ってくれていた
大崎を手放す気はなかった。
「いくら、父上のお望みでも、余の一存で
聞き入れる事は出来かねます。
しばし、時を頂きたい」
家斉は冷静を装ったが、内心、心がざわついた。
急に、治済が、若さに陰りのある孤独な男に見えてきた。
「松心尼」
家斉は、御坊主を呼んだ。
少しして、障子が開き、
剃髪し男物の羽織と袴を着用した中年の女が姿を現した。
「今宵は、奥泊まりを致す。奥向へ伝えよ」
家斉は落ち着かない様子で言った。
「承知しました。お相手は、どなたをご所望でございますか? 」
松心尼がすました顔で訊ねた。
「今宵は、於富様をお呼びせよ」
家斉が咳払いして言った。
「公方様、母御との同衾だけはなりませぬ」
松心尼は顔色を変えた。
「たわけ者。母上と交わるとでも思ったか?
母上と夜通し話がしたい故、そう伝えよ」
家斉は顔を赤らめた。
「承知しました」
松心尼は、勢い良く、障子を閉めた。
しばらくして、定之助がやって来た。
「いざ、参らん」
家斉は、定之助を随え御鈴廊下を渡ると【御小座敷】へ入った。
【御小座敷】に入ると、於富が待っていた。
「母御をお召し出しとは、前例のない事にございます」
傍に仕えていた高丘が、怪訝な表情で苦言を呈した。
「今宵は、母上と2人きりで話しがしたい故、
そちらは、席を外してもらえるか? 」
家斉は穏やかに命を下した。
「皆の者。下がるぞ」
高丘は、周囲にいた者たちを率いて御小座敷を出て行った。
「折り入って、私に、お話とは何でございますか? 」
於富は、家斉と2人きりになると傍に寄り添った。
「父上が、大崎局を貰い下げたいと願い出ました」
家斉が神妙な面持ちで答えた。
「それは、まことの話でございますか? 」
於富は、動揺を隠し切れずお茶をこぼした。
「まことの話でございます」
家斉は、於富の膝を布巾でふいてやりながら言った。
「大崎局を側室になさる気か」
於富は唇をかみしめた。
「まだ、決まったわけではござらぬ。
中奥と一橋家の近習衆の合意も得ておりませぬ」
家斉が告げた。
「父が子に、側室を貰い受けようとするとは、
さぞかし、貴方様も驚いた事であろう。すまぬ。
母がいたらぬせいで、貴方様の心までかき乱してしまった」
於富が、家斉を優しく抱き寄せた。
「母上こそ、お辛いでしょう。母上が、拒まれるのであれば断ります」
家斉は、於富の顔を見つめると言った。
「いえ、公方様の仰せの通りに致します」
於富は、決心を固めたように告げた。
於富は、床に入るとすぐ、寝息をたてた。
家斉は、於富の傍らに横になると目を閉じた。
しかし、脳裏に浮かんでくるのは、
治済と大崎が、仲睦まじく過ごす姿であった。
大崎を女として見た事がなかったが、
大崎は、隣に眠る母より若くて美しい。
治済が、傍に置きたいと望む気持ちもわからなくもない。
大崎は、家斉の乳母となったばかりに
結婚も出産も経験しないまま死ぬまで大奥に居るはめになった。
一橋家の御女中だったならば、結婚の機会があったかもしれない。
もし、大崎が望んでいるならば、大崎を不幸にする事にならないか?
家斉は、悩みに悩み抜いた末、
朝一番に、大崎を呼び出して本心を聞き出す事にした。
翌朝。家斉は、一睡も出来ずに朝を迎えた。
於富は、迎えに上がったお付の御中臈を随えて【御小座敷】を後にした。
「公方様。お呼びにございますか? 」
於富と入れ替わりに、障子の向こうから大崎の声が聞こえた。
家斉は、自ら障子を開けさせた。
家斉は、大崎を中に引き入れると
【御小座敷】の前に控えていた
御中臈にお人払を命じ障子をきっちり閉めた。
「面を上げよ」
家斉が静かに告げた。
「昨夜は、母御と久方ぶりにお過ごしになったと聞きました。
何故、私を召し出されたのでございますか? 」
大崎がおそるおそる、顔を上げると訊ねた。
「民部卿が、そなたを貰い下げたいと申し出た。
そなたも同意の上なのか? 」
家斉が冷静に訊ねた。
「よもや、まことに、公方様へ願い出るとは思いもよりませんでした」
大崎は、決り悪そうに言った。
「於富様は、民部卿の正室故に意見をお伺いした」
家斉が咳払いして言った。
「於富様には、まことに、申し訳ない事を致しました」
大崎は青い顔で言った。
「於富様は、余に従うと申された。
不公平であってはならぬと考え、そなたを呼んだのじゃ。
して、何か申したい事はあるか? 」
家斉は、大崎の顔を覗き込むと訊ねた。
「私も、公方様の仰せの通りに致す所存でございます」
大崎が深々と頭を下げた。
「左様か。ひとつ、聞くが正直に答えるが良い」
家斉は、大崎の傍らに座ると小声でささやいた。
「何なりとお訊ねくだされ」
大崎が神妙な面持ちで告げた。
「父上は、そちにお手をつけたのか? 」
家斉が慎重に訊ねると、大崎は一瞬、肩をびくつかせた。
「やはり、そうか。そなたは、まことに、正直者じゃのう。
1度きりなのだろうな? 」
家斉が訊ねた。
「お許しくだされ。あれは、過ちでございました。二度と致しませぬ」
大崎が、畳に額を押しつけると必死に詫びた。
「そなたが悪いのではない。
悪いのは、そちを我物にしようとした民部卿の方じゃ。
誰に聞かれても何もないと白を切るのじゃ。
そちの名誉を守るためにもそれが良い。
認めたら、そちも民部卿もただではすまされぬ」
家斉が、大崎に耳打ちした。
「公方様。お気遣い頂き感謝致します」
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