第16話 一石を投じる

文字数 1,165文字

天明4年、3月24日の朝。泊り番だった佐野は厠から出ると、

詰所に向かって中庭に面した廊下を歩いていた。

3日3晩、降り続いた雨で、中庭の真ん中には、

大きな水たまりができていた。

佐野はふと、昨夜の事を思い出して立ち止まった。

その時だった。庭の方から、悲鳴が聞こえた。

急いで、庭に飛び出すと、掃除之者の植崎九八郎が、

水たまりの傍で腰を抜かしていた。

「九八郎殿。大事ござらんか」
 
 佐野は、九八郎の元に駆けつけた。

「ひ、人が、死んでいる」

  植崎が、水たまりを指差して叫んだ。

「誰か、誰かおらぬか」
 
 佐野は、城内の方へ向かって、助けを呼んだ。

佐野の声を聞きつけて、近くにいた人たちが集まって来た。

「桔梗之間へ運ぼう」
 
 数名の有志で、屍を城内へ担ぎ込んだ。

【桔梗之間】には、【番医】の峯岸春庵と天野良順がいた。

騒ぎを聞きつけ、駆けつけた【大目付】の松平忠郷と

目付の柳生久通は、事情を聞く名目で、

第一発見者の佐野をその場で取り押さえた。

植崎は、隙を見て逃げ出した後で、

佐野は、野次馬の好奇な視線に晒されながら連行された。

「山城守ではないか」
 
 柳生は、屍の顔に被せられていた

天狗のお面を外すと現れた顔を見るなりさけんだ。

「主殿頭をお呼びせねばなりますまい」
 
 忠郷が、柳生に告げた。

「いや、待て。わざわざ、お手を煩わせる必要はなかろう。

それより、山城守の亡骸を田沼邸へ運び出すが先じゃ」
 
 柳生は、意知の亡骸を田沼邸へ運ばせた。

 その時、峯岸も、柳生の命により田沼邸へ赴いた。

意次が、変わり果てた姿となった意知と再会したのは、その日の夜だった。

毎日、政務で忙しく、報せを聞いてからすぐに、駆けつけられなかったのだ。


 その日の内に、佐野は、吟味を受ける事なく投獄された。

そして、翌日、佐野は、切腹を申し渡された。

幕府には、乱心による犯行と報告が行った。

調書によると、午の刻。政務を終えた老中たちが次々と、退出をしはじめた。

 老中に続いて、若年寄たちも、

政務を終えた者から、1人、2人と帰りはじめた。

若年寄の田沼意知が、中之間から、

桔梗之間の間に差し掛かった時、

新番士の佐野政言が、直所から走り出て来て意知に斬りかかったのだ。

 佐野は、騒ぎを聞きつけて、駆けつけた大目付の松平忠郷と

目付の柳生主膳政道により、その場で捕えられた。

一方、斬られた田沼の方は、血まみれで倒れていた。

番医師の峯岸春庵と天野良順が、

意知の手当に任じられたが、意知は、手当の甲斐なく、

その日の内に死去したと記されていた。

 江戸市中では、佐野政事による田沼意知殺傷事件の

顛末が書かれた瓦版が飛ぶ様に売れ、

田沼家の七曜紋を縁起の悪い紋と中傷する落書きがあふれて、

佐野は、一夜にして失政を行う田沼意次の嫡子を亡き者として

田沼派の権勢を地の底に落とした世直し将軍と称賛を浴びた。

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