第9話 天変地異

文字数 2,066文字

翌年、赤蝦夷の遠征隊は再来日するが、松前藩は幕府には報告せず、

独断で交易を拒否した。ラストチキンは交易するのならば、

長崎へ行きと贈物を突き返されたが、

長崎は、赤蝦夷から遠くて不便だと言い残して帰国した。

蘭学者や蘭癖大名たちの間では、赤蝦夷の南下政策が問題となっており、

仙台藩医で蘭学者の工藤平助・絶世論家の林子平・数学者の本田利明など。

積極論者は、赤蝦夷の南下を防ぐためには、

蝦夷へ進出し、その経営を行うべきだと主張していた。

 一方、評定所の構成員たちは、長崎交易の拡大に向けて動き出した。

意次は、意知を長崎へ赴かせて、長崎奉行の久世広民と協議させた。

久世は、意次の計画に関心を示して協力を願い出た。

 天明3年、3月12日に、岩木山が、同年の7月6日に浅間山が大噴火し、

各地に火山灰を降らせた。その直後、川越藩から被害届が老中へ提出された。

幕府は、これまで、勘定奉行や南町奉行を歴任した他、

日光東照宮や禁裏・二条城の修復・諸所の川普請に携わった

熟練した役人でもある根岸鎮衛を浅間山の

復興工事の巡検役に任じて川越へ派遣した。

根岸は、8月28日。江戸を出立し、翌月の2日には渋川に入り、

被災した村々を見て廻り、28日.武蔵国本庄宿にて、

川越藩の役人と協議を行い幕府の救済方針を伝えた。

火山の噴火は、冷害をもたらし、農作物に、破壊的な被害をもたらした。

 浅間山が大噴火した後、火砕流と火砕泥流、

そして、吾妻川と利根川の洪水が発生し、

死者1千人超の大災害が起きた。

群馬県嬬恋村の鎌原地区においては、

全域が、土石雪崩に飲み込まれ、一瞬にして地下に消えた。

村人93名は、村の高台にあった観音堂への避難し生き延びたが、

477名の村人が犠牲となった。

 浅間山周辺の被災状況が、幕府に伝えられる中、

【等順】という名の僧侶が、嬬恋村数名の僧侶を随え嬬恋村に赴き、

被災者の救済を行ったという話が、江戸の家治の耳にも届いた。

等順は、東叡山寛永寺護国院第13世住職を務めた後、

信州善光寺別当大勧進第79世貫主となった人物で、

嬬恋村から、善光寺へ戻った後、

天明の大飢饉飢民救済のため、善光寺所蔵の米麦を全て蔵出しして

民に施し救済を受けた人々が等順の恩に感謝して集まり、

大勧進表大門前にある放生池を掘る。

 その後、天明4年、2月。【融通念仏血脈譜】

(お血脈)を新たに簡略化して作成。

参拝者へ配布をはじめ、7月には、本堂において

【浅間山大噴火被災者の追善大法要】を執行。

被災者1,490人の名が書かれた【御経塔婆木】を送り、

天明5年、【大開帳法要】、念仏堂において回向することとなる。

 翌年から、全国的に深刻な飢饉が発生して、

飢餓と共に疫病が各地に広まった。

全国で、およそ、2万人が飢餓や疫病により命を落とした。

中でも、東北地方の被害は酷く、

白河藩と米沢藩以外の諸藩は、藩内に多くの死者を出した。

多くの犠牲者が出た背景には、新田開発や耕地灌漑事業等の

行き過ぎた開発が招いた労働不足と強引に治水した河川が、

耕地に接近し過ぎたことにより、

洪水を頻繁に引き起こす要因となっていた。

 幕府は、日本各地から、米に余裕がある藩は、

東北地方に売り惜しみをしないように御触れを出した。

幕府の御触れが出る前に、いち早く、米の買い上げに乗り出した

米沢藩と白河藩は、藩内から死者を出すことがなかったが、

米沢藩主の上杉鷹山が、かねてから備荒貯蓄制度を進め

麦作を奨励するなど、飢饉に備えた上で、越後や酒田から

1万1,605俵の米を買い入れて領民に供出したのに対して、

白河藩主の松平定信は、大阪に集まった米を買い占めた上、

会津の松平家から、一万石俵を取り寄せて領民に配給した。

 そのため、幕府の御触れがあったにも関わらず、

東北地方へ米が廻らず米価の高騰が起きた。

豪農から、安くたたいた米を江戸へ廻米して藩が

背負った借金の穴埋めし、何とか、凌ごうとした仙台藩も、

深刻な米不足により、藩内で米価が高騰して領民が困窮したため、

多くの餓死者を出すことになっていた。

引前藩もまた、農民が備蓄していた米を江戸へ廻米し、

藩の財政の穴埋めをした結果、

藩内の米が足りなくなり多くの餓死者を出した。

定信が藩主を務める白河藩が、

藩内で1人も餓死者を出さなかったという話は江戸に伝わり、

幕臣たちの間で定信に対する評価が高まった。

幕閣には、定信の兄にあたる松平定国がいた。

 定国は家督を相続した後、溜間詰を経て侍従となっていた。

定国と定信は不仲であったことから、

定国は、定信の入閣を断固として反対した。

そこで、定信は、養母の宝蓮院に自分を入閣させるよう

家治に進言して欲しいと頼んだ。

一方、意次は、幕閣人事に関する法の改正のため周囲に働きかけはじめた。

定信は、江戸に帰る度、幕閣内に知人を増やして

情報収集を怠らず入閣の準備を進めていた。

天明の大飢饉の功績により、入閣が決まるはずであったが、

定信の前に、譜代大名は入閣できないとの

古い慣習の壁が立ちはだかった。

味方であるはずの譜代や親藩の大名たちさえ定信の入閣を反対した。



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