第22話 民間医学

文字数 2,456文字

「公方様は、朝廷と幕府との間が、

上手く行っている時は良いが、悪くなった時、

将軍世子が、朝廷に近い水戸徳川家の嫡子と結んでいると、

保守派の幕臣らに知れれば、

将軍家への忠誠心が揺らぐのではないかと

案じておられるのでござる」
 
 鳥居は、家斉の顔を覗き込むと言った。

「公方様は、考え過ぎじゃ。悪くなるはずがなかろう」
 
 家斉は口をとがらせた。

「公方様の仰せに従ってくだされ」
 
 鳥居は、深々と頭を下げた。

「御免仕る」
 
 家斉は、逃げるようにして【御仏間】を後にした。

その瞬間、仏壇に置いてあった

歴代将軍の位牌が、突然、畳の上に落下した。

「位牌が、ひとりでに落ちるとは不吉じゃ。

何か、悪い前兆でなければ良いがのう」
 
 背後で、鳥居のつぶやきが聞こえたが、

家斉はそのまま、ふり返る事なく【御仏間】を出た。

 家斉は、川村に薬を調べさせた。

その後、薬の調査に協力した奥医師見習で、

本草学者の栗本丹州が、直接、説明したいと申し出たためそれを許した。

「大納言様。この薬の原料は、マンジュサゲの鱗茎でございます」
 
 栗本は、神妙な面持ちで告げた。

「マンジュサゲとは、秋に、山里に行くと、

野に咲いている赤くて、花火のような形をしている花であろう? 」
 
 家斉は、最近、読んだ書物で読んだ知識を披露し、知ったかぶりをした。

「よく、ご存じですね。マンジュサゲは元々、唐の花ですが、

近年は、我が国の野山でも見る事が出来ます。

別名、死人花とも呼ばれており、

一説では、その名のいわれは、

彼岸に咲くためだとされていますが

扱いを誤ると、死を招くためだともいわれています」
 
 栗本は、快活に答えた。

「それがまことの話であれば、

あの奥医師は、公方様の御命を

軽んじておるという事になるではないか? 」
 
 家斉が唇をかんだ。

「そうとも限りません。この薬は、

マンジュサゲの鱗茎をすり潰した石蒜という薬なのですが

この薬を臓の病による水気やむくみの療治に用いると、

神がかった減気が見られます。

扱いを間違わなければ、死には至る事はございますまい」
 
 栗本が冷静に告げた。

「水気やむくみは、公方様の証にみられる。

療法に間違いはない様に思えるが、

やはり、怪しげな薬を将軍家の療治に用いる事はまかりならぬ」
 
 家斉は考え込んだ。

「公方様の病は、脚気だと聞きましたが、

何故、マンジュサゲを用いるのでございますか? 」
 
 栗本が素朴な疑問をぶつけた。

「脚気の薬ではないのか? 」
 
 家斉は思わず、聞き返した。

「肺水腫や悪性腫瘍による水気やむくみを改善する時に用いる薬で、

脚気の療治に用いる事はござらぬ。

恐らくは、その医官は、大八木先生とは、

異なる診立てをしたのではござらんか」
 
 栗本が冷静に答えた。

 翌日。家斉は、一晩考えた末、

家治の治療にあたっていた奥医師の

若林敬順と日向陶庵と御座之間にて対面した。

「御意を得ます。奥医師の若林敬順と申します。

大納言様の御尊顔を拝し恐悦至極にございます」

「御意を得ます。奥医師の日向陶庵と申します。

大納言様より、直々に御召し頂き恐悦至極にございます」
 
 両名、その場に平伏し恭しく挨拶をした。

「して、公方様の病状は、どうなのじゃ? 」
 
 家斉は、若林に訊ねた。

「かなり、重病のご様子でございますが、

様子を見ながら、療治を続けて行く所存です」
 若林が答えた。

「その方の診立てを申せ」

  家斉は、日向に命じた。

「私も、様子を見ながら、療治する事が、賢明かと存じます」
 
 日向は、神妙な面持ちで答えた。

 2人が療治のため、【御休息之間】に入ったのを見計らい

家斉も、2人の後をついて行った。

「その方らが、公方様の療治を行うところがみたい」
 
 家斉が、2人に告げた。

「公方様。大納言様が、療治を御覧になりたいと申されていますが、

同席頂いても、よろしゅうございますか? 」
 
 若林は枕元に座ると、家治に声をかけた。

家治は、眠っているのか反応しなかった。

「公方様。何卒、同席をお許し頂きたい」
 
 家斉は深々と頭を下げた。

「こやつに、有体を見せてやるが良い」
 
 家治は、目を閉じたままだがかすれ声で言った。

「かしこまりました」
 
 若林は、緊張した面持ちで返事した。

「しかと、見るが良い」
 
 家治は、薄目を開けると言った。

 日向は、慎重に掛布団をめくった。

家斉は思わず、身を乗り出した。

家治の手足は、象足のように肥大化していた。

日向は、家治の着物の裾をめくると、

家治の手足に出来た水気を見せた。

「これは、酷い」
 
 家斉は、思わず、顔を背けた。

 家治は、目を大きく見開くと、家斉の方に顔を向けた。

家斉は、家治の無言の圧力に圧倒させられた。

「公方様。もはや、唐薬を投薬するしか、手立てはございますまい。

石蒜という唐薬を用います。扱いは難しいですが、

上手く行けば、神がかった減気がみられます」
 
 若林は、神妙な面持ちで告げた。

「もちろん、切腹覚悟で唐薬を投与すると申しておるのであろうな? 」
 家斉は、若林に詰め寄った。

「私の診立て通りであれば、公方様の病は投薬すれば治ります」
 
 若林がひるむ事なく言い返した。

「石蒜の原料のマンジュサゲは、毒を持った花じゃ。

神がかった減気がみられる事もあるが、

扱いを誤れば死に至るといわれている。

斯様に異なる薬を、まことに、

おぬしは、公方様の療治に使う気なのか? 」
 
 家斉は思わず、声を荒げた。

「公方様と同じ病状の患者に、

石蒜を投薬して完治したとの先例はございます。

何処から聞いたのか存じませぬが、死に至るというのは、

誤って口にした時の話で、此度の療治は、

石蒜を布に包み患部に貼る療法故、斯様な事はあり得ませぬ」
 
 日向が冷静に説明した。

「万が一、体内に、入った時は、どうするのじゃ? 」
 
 家斉が追及すると、日向は、眉間にしわを寄せて押し黙った。

「素人が、四の五の申した所で

療治の邪魔になるだけじゃ。下がるが良い」
 
 家治が、家斉を諭した。

「此度は、引き下がる事と致します。ご自愛くだされ」
 
 家斉は、渋々、引き下がった。

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