第29話 影法師
文字数 1,693文字
一方、松平定信は、葬儀の後も江戸に残り、
表向きには田安家の用事を済ませていると装いながら、
在府の譜代、大小の大名たちと会い意次率いる田沼派の一掃と、
自らの老中首座就任のための協力を申し入れ今後の作戦を練っていた。
また、田沼派一掃に向けて、蝦夷地開発の中止を訴えはじめた。
世論も、それに応えるかのように幕政批判をくり返した。
幕府は、ひとまず、蝦夷地に赴任していた探検隊を帰還させる事にした。
意次は、探検隊を帰還させる事を最後まで反対したが、
もはや、それに賛同する者はいなかった。
この時から、意次は、真剣に、辞職を考えはじめた。
蝦夷地開発が頓挫した場合、責任を取り辞職する宣言は実現に近かった。
家治の死が公表されてから1か月後、家斉は本丸御殿へ遷った。
家斉は、御庭番の川村修富を本丸への御伴に命じ、
家治の時代に、小納戸を務めた林忠英と
中野定之助を引き続き本丸小納戸に就かせた。
また、西丸御殿時代から、
家斉の近習を務める水野忠成と木村重勇も、
家斉と共に西丸御殿から本丸御殿へ遷った。
定之助は、家斉から寵愛を受けている事を
良い事に家斉の傍を独占しはじめた。
本丸御殿に遷った2日後の正午過ぎ、
家斉は政務を早々に切り上げると、
【井呂裏之間】にて、木村を相手に将棋を打っていた。
「上様、如何なされましたか? 」
木村は、家斉が打つ手を休めて考え込んだため何事かと訊ねた。
「そちは、辞職願を出した主殿頭の所存を如何に考える? 」
家斉は、意次が、辞職を願い出た事に対する意見を木村に求めた。
「それがしには、何とも」
木村は考え込んでしまった。
「主殿頭が、自ら、御役御免を願い出るとは思いもしませんでしたが、
辞めさせる手間が省けて、
かえって、良かったのではござらんか? 」
2人の対局を見ていた定之助が、木村を尻目に横から口を挟んだ。
「意次の奴が、自ら身を退くとは、どうも解せぬ」
家斉は腕を組んで思案した。周りに流されぬ事なく
信念を貫いて来た男の引き際にしては、
あっさりし過ぎやしないかと思った。
「幕政に対する民の批判が強まる中、
主殿頭も、思う所があったのでござろう」
木村は、ようやく、答えが見つかり安堵したように告げた。
「意次は、わしと交わした約束をまだ、果たしておらぬ」
家斉は口をへの字に曲げた。
意次から、大奥の改革に着手したという報告は未だ届かない。
辞職願を提出したという事は、その気がないという事になる。
「主殿頭の辞職を機に、幕閣から、
田沼派を一掃なされば良いのではないかと存じます」
定之助が興奮気味に告げた。
「たわけ者。何を申すか? 」
家斉は思わず、カッとなり、定之助の頭をこづいた。
家治の死を悼む間もなく、意次を早く、罷免しろと
催促する父に対し家斉は反発を強めた。
「皆がそう申しております」
定之助が頭をさすりながら言った。
「今は、喪に服さねばならぬ時じゃ」
家斉は、意次の辞職を素直に受け入れる事が出来ずにいた。
「播磨守。ちと、よろしいか? 」
忠英が遠慮気に、【井呂裏之間】へ入って来た。
「こやつめ、推参致しおいて。それがしは、
上様と大事な話をしておるのじゃ。うぬにはそれがわからぬか? 」
定之助が厳しい口調で咎めた。
「御用達の呉服商が、上様が将軍就任式に
お召しになる裃の納入に参ったら、
伝えるように申したのは貴殿ではござらんか? 」
忠英がムキになって言い返した。
「それを早く言わぬか? うぬは、いつもひと言足りぬ」
定之助は、忠英の頭を軽くこづいた。
「言おうとしたら、貴殿が止めたのでござらんか」
忠英がしかめ面で反論した。
「上様。中座をお許しくだされ」
定之助は、一礼した後、忠英の尻をたたきながら退席した。
「上様。民部卿がお見えでござる」
しばらくして、忠英が障子越しに告げた。
「何? 父上が、お見えになっただと? 」
家斉は急に、あわて出した。
治済が動き出すと、必ず、後には何かが起きる。
「登城されて間もなく、談事部屋にお入りになりましたが、
今しがた、退出されてこちらへ向かわれておる次第」
忠英が冷静に報告した。
表向きには田安家の用事を済ませていると装いながら、
在府の譜代、大小の大名たちと会い意次率いる田沼派の一掃と、
自らの老中首座就任のための協力を申し入れ今後の作戦を練っていた。
また、田沼派一掃に向けて、蝦夷地開発の中止を訴えはじめた。
世論も、それに応えるかのように幕政批判をくり返した。
幕府は、ひとまず、蝦夷地に赴任していた探検隊を帰還させる事にした。
意次は、探検隊を帰還させる事を最後まで反対したが、
もはや、それに賛同する者はいなかった。
この時から、意次は、真剣に、辞職を考えはじめた。
蝦夷地開発が頓挫した場合、責任を取り辞職する宣言は実現に近かった。
家治の死が公表されてから1か月後、家斉は本丸御殿へ遷った。
家斉は、御庭番の川村修富を本丸への御伴に命じ、
家治の時代に、小納戸を務めた林忠英と
中野定之助を引き続き本丸小納戸に就かせた。
また、西丸御殿時代から、
家斉の近習を務める水野忠成と木村重勇も、
家斉と共に西丸御殿から本丸御殿へ遷った。
定之助は、家斉から寵愛を受けている事を
良い事に家斉の傍を独占しはじめた。
本丸御殿に遷った2日後の正午過ぎ、
家斉は政務を早々に切り上げると、
【井呂裏之間】にて、木村を相手に将棋を打っていた。
「上様、如何なされましたか? 」
木村は、家斉が打つ手を休めて考え込んだため何事かと訊ねた。
「そちは、辞職願を出した主殿頭の所存を如何に考える? 」
家斉は、意次が、辞職を願い出た事に対する意見を木村に求めた。
「それがしには、何とも」
木村は考え込んでしまった。
「主殿頭が、自ら、御役御免を願い出るとは思いもしませんでしたが、
辞めさせる手間が省けて、
かえって、良かったのではござらんか? 」
2人の対局を見ていた定之助が、木村を尻目に横から口を挟んだ。
「意次の奴が、自ら身を退くとは、どうも解せぬ」
家斉は腕を組んで思案した。周りに流されぬ事なく
信念を貫いて来た男の引き際にしては、
あっさりし過ぎやしないかと思った。
「幕政に対する民の批判が強まる中、
主殿頭も、思う所があったのでござろう」
木村は、ようやく、答えが見つかり安堵したように告げた。
「意次は、わしと交わした約束をまだ、果たしておらぬ」
家斉は口をへの字に曲げた。
意次から、大奥の改革に着手したという報告は未だ届かない。
辞職願を提出したという事は、その気がないという事になる。
「主殿頭の辞職を機に、幕閣から、
田沼派を一掃なされば良いのではないかと存じます」
定之助が興奮気味に告げた。
「たわけ者。何を申すか? 」
家斉は思わず、カッとなり、定之助の頭をこづいた。
家治の死を悼む間もなく、意次を早く、罷免しろと
催促する父に対し家斉は反発を強めた。
「皆がそう申しております」
定之助が頭をさすりながら言った。
「今は、喪に服さねばならぬ時じゃ」
家斉は、意次の辞職を素直に受け入れる事が出来ずにいた。
「播磨守。ちと、よろしいか? 」
忠英が遠慮気に、【井呂裏之間】へ入って来た。
「こやつめ、推参致しおいて。それがしは、
上様と大事な話をしておるのじゃ。うぬにはそれがわからぬか? 」
定之助が厳しい口調で咎めた。
「御用達の呉服商が、上様が将軍就任式に
お召しになる裃の納入に参ったら、
伝えるように申したのは貴殿ではござらんか? 」
忠英がムキになって言い返した。
「それを早く言わぬか? うぬは、いつもひと言足りぬ」
定之助は、忠英の頭を軽くこづいた。
「言おうとしたら、貴殿が止めたのでござらんか」
忠英がしかめ面で反論した。
「上様。中座をお許しくだされ」
定之助は、一礼した後、忠英の尻をたたきながら退席した。
「上様。民部卿がお見えでござる」
しばらくして、忠英が障子越しに告げた。
「何? 父上が、お見えになっただと? 」
家斉は急に、あわて出した。
治済が動き出すと、必ず、後には何かが起きる。
「登城されて間もなく、談事部屋にお入りになりましたが、
今しがた、退出されてこちらへ向かわれておる次第」
忠英が冷静に報告した。
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