第51話 同じ釜の飯を食べた同士

文字数 2,938文字

お伊曰は、ふいに、大崎の事を思い出した。

確か、大崎は、御次に降格したはずだ。

急に、大崎の安否が気になり、

【二丸御殿】に戻るのを止めて、大崎を捜す事にした。

その頃、大崎は、就寝中に、

火事に気付き着の身着のままで外へ飛び出した所、

偶然、部屋の前を通りがかった御坊主の松心尼に、

助けられて難を逃れていた。

「軽い火傷で済んで良かったではないか」
 
 松心尼は、大崎を【御仏間】に引き入れると傷の手当をした。

「もしや、そなたは、松島局ではありませぬか? 」
 
 大崎は、聞き覚えのある声に気づき訊ねた。

「その名を呼ばれたのは、久方ぶりじゃ」
 
 松心尼は照れくさそうに言った。

「大奥を去ったと聞いていましたが、

御坊主になられていたとは、

今まで、気づきませんで失礼致しました」
 
 大崎は深々と頭を下げた。

「誰にも、気づかれぬ方がかえって都合が良い。

未練がましいと思われるかもしれぬが、

権力を失っても、長い月日を過ごした大奥を去る事は忍び難く、

如何なる身分でも良い故、残る道はないかと先代に

願い出たところ御坊主にしてくださったのじゃ」
 
 松心尼が穏やかに告げた。

「何か、気がかりな事でもあったのですか? 」
 
 大崎は、自分に重ねて訊ねた。

 大崎は、御次に降格されても大奥に残ろうと決意したのは、

家斉の行く末を見届けたかったからだ。

「家斉公が将軍となられた後、

幕閣を主導していた寵臣の主殿頭と田沼派の重臣らが罷免された。

老中首座に就いた越中殿は、

祖父の功績を受け継ぎ大奥の改革に乗り出す気じゃ。

長い間、大奥は、御台様に随伴した御年寄筆頭の高丘局や

その配下の者らによって牛耳られてきた。

しかれども、今まで通りのようには行かなくなるかもしれぬ。

越中殿が、高丘局らをいかにしてやり込めるか見物じゃ」
 
 松心尼は思い出し笑いをした。

「大奥の行く末を見たいというだけで、大奥に残ったのですか? 」
 
 大崎は、もっと、大きな志があると期待したのでガッカリした。

「大奥程、面白き所はない。

家斉公は、父御から、子を多く持てと尻をたたかれているそうじゃ。

御坊主は中奥への出入りを許され、

御褥の監視をするのが役儀だ。

御年寄だった頃より、多くを深く知る事が出来る」
 
 松心尼は、懐から、帳面を取り出すと大崎に差し出した。

「これは何でございますか? 」
 
 大崎は、帳面を手に取るとページをめくった。

「隠居後の楽しみに、見たり聞いたりした事を書き留めておる。

中には、門外不出の事もある故、

肌身離さず、持ち歩かねばならぬ。そなたの事も書いてある」
 
 松心尼は、大崎について記されたページをめくって見せた。

大崎は、誰も知らないはずの事実が記されていた為驚愕した。

「もちろん、名は別人にするし、誰かわからないように工夫して書く。

故に、そなたの事を書いたとしても気づく者はおらぬ」
 
 松心尼はあっけらかんとして言った。

「斯様な事は、まかりなりませぬ。高丘局に知られたら、

ただでは済まされませぬ。ただちにおやめくだされ」
 
 大崎は、帳面を松心尼に突き返した。

「越中殿が、その内、あの者を大奥から、追い払う故、問題なかろう」
 
 松心尼は口をとがらせた。

「もしや、越中殿とお知り合いでしたか? 」
 
 大崎が身を乗り出して訊ねた。

「さようだ。見逃してくれるなら、

そなたが返り咲きするための後ろ盾を頼んでやっても良いぞ」
 
 松心尼が上目遣いで言った。

「今更、高丘局に、そなたの事を告げ口して取り入る気はございませぬ。

むしろ、大きな後ろ盾を得たいと考えています。

まことに、越中殿に頼んで頂けるのでございますか? 」
 
 大崎が、わらにもすがる思いで訊ねた。

「越中殿は、奥向の間者となる者を捜しておる。そなたを推挙しよう」

  松心尼は満面の笑みを浮かべた。

「よしなに、お頼申します」
 
 大崎は、自分を陥れた相手だろうと、

身の安全が図れるなら、間者でも何でもやる気でいた。

「これからは、我らは、同志じゃ」
 
 松心尼は、大崎の肩を優しくたたいた。

 一方、お伊曰は一晩中、大崎を捜したが

見つけ出す事が出来ないまま朝を迎えた。

【二丸御殿】の【安祥院の部屋】に戻ると、

安祥院と御女中たちの姿はどこにもなく、

掃除された殺風景の部屋に、お伊曰の手荷物だけが置かれていた。

「まだ、そこにおったのか」
 
 お伊曰が呆然と佇んでいる所へ、お園がやって来た。

「安祥院様と他の方は、どうなされましたか? 」
 
 お伊曰は、逸る気持ちを押さえて訊ねた。

 安祥院を殺してはいない。

粉薬を入れる寸前に、ボヤ騒ぎがあり、結局、朝まで戻って来なかった。

「安祥院様は昨夜、急に、大奥を去る事が決まり、

二丸御殿をお出になったのだ。他の者は安祥院様に随伴した」
 
 お園は無表情で告げた。

「何故、急に、大奥を去る事がお決まりになったのでございますか? 」
 
 お伊曰は興奮気味に答えた。

「幕命故、安祥院様も従うしか他にございませぬ」
 
 お園は、額を押さえながら言った。

一晩中、起きていたらしく、眼は充血し顔色が悪かった。

「それでは、私は、奥向へ戻ってもよろしゅうございますか? 」
 
 お伊曰は、手荷物を胸に抱えると訊ねた。

「戻るが良い」
 
 お園は、お伊曰を送り出すと、掃除を始めた。

お伊曰は、奥向に戻る事が出来て

嬉しかったが高丘の反応が怖かった。

「高丘局が、そなたを呼んでいたぞ」
 
 於富は、お伊曰を見つけるなり言った。

お伊曰は、重い足取りで高丘の元へ向かった。

高丘は、お伊曰が遠慮気に、戸口に立つと手招きした。

「申し訳ございませぬ。とうとう、殺める事が出来ませんでした」
 
 お伊曰は、言われる前に謝ろうと頭を下げた。

「大義であった。使わなかったのなら返すが良い」
 
 高丘は、怒っている様子はなくいつもと変わらなかった。

「急に、大奥を去られるとは驚きました」
 
 お伊曰は粉薬を返すと言った。

「公方様の耳に入り、穏便に済ますようにとの御上意があったそうじゃ」
 
 高丘は、冷静に告げた。

「何故、安祥院様を暗殺なさろうとしたのか教えて頂けますか? 」

  お伊曰は、思い切って訊ねた。

「家治公が身罷られた日の夜、二丸御殿から、念仏が聞こえたそうじゃ。

家治が、床に就かれてから、幾度となく、念仏が聞こえたという。

故に、側衆の中では、家治公は、呪詛されたのではないかと疑う者もいて、

奥女中らに命じて、調べさせたところ、

安祥院様の許には、何体もの仏像と経典があったそうだ。

安祥院様が、写経なされた反故紙の一部に、

呪文の様な文字で書かれているものが、何枚も見つかった。

学者に鑑定させたところ、日本語でも、中国語でもないそうだ」
 
 高丘が神妙な面持ちで語った。

「仏像を部屋に置いておられる上臈はおられますが、

経典まで置かれているお方は、そうそうおられません。

いったい、どのようにして手に入れたのでございましょう? 」
 
 お伊曰はけげんな表情で言った。

「先日、身罷られた宝蓮院様も、

呪詛されたのではないかと疑う御仁もおられて、

これは大変だという事になり、奥向に伝わる掟に従い、

亡き者とする事に相成ったわけじゃ」
 
 高丘が低い声で告げた。

「高丘様。これで、恩は、十分、返せましたよね? 」
 
 お伊曰は怯えた目で訊ねた。
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