第30話 ひとめぼれ

文字数 2,232文字

「今、談事部屋と申したか? 」

  家斉が身を乗り出して訊ねた。

「はあ」
 
 忠英が神妙な面持ちで返答した。

「父上の元にも、公方様の遺言を伝える書状が届き、

委細を確かめる為、登城なされたのじゃ」

  家斉は意気揚々と、登城する治済の姿を想像して身震いした。

「上様、何方へ行かれるのでござるか? 」
 
 水野忠成は、家斉が、部屋を飛び出したかと思うと、

縁側から、庭へ飛び降りたので驚いて引き留めた。

「父上には、わしは不在だと伝えよ」
 
 家斉は、周囲を慎重に伺いながら庭を駆け抜けて行った。

水野はあわてて、家斉の後を追いかけた。

「上様。おケガはござらんか? 」
 
 水野は、御三丸入口御門の潜り戸の前で、家斉に追いついた。

家斉は、潜り戸の淵にからだが、すっぽり、はまってしまい

外へ抜け出す事が出来ずに立ち往生していた。

水野忠成はあわてて、家斉の身体を内へ引き戻した。

家斉は、潜り戸の淵から身体が外れた拍子に地面に尻餅をついた。

「大崎に言われた通り、ちと、菓子をひかえねばならぬ。

このからだでは抜け出す事もままならぬ」
 
 家斉が、水野の肩を借りて上体を起こすと言った。

「何故、上様は、民部卿を避けておられるのですか? 」
 
 水野が不思議そうに訊ねた。

「父上は、何かと言えば、わしのためだと恩着せがましく申される。

父上は、わしがまだ、何も知らぬ幼子だと思っておるようだが、

父上が、わしの為だけに、

幕政に働きかけているのではない事は、とっくの昔に気づいておる。

先代は、わしが若年である事を案じて、

御三家と御三卿の当主に対して、

わしを補佐するようにと遺言なされたが、考えてもみろ。

御三卿の清水重好は、病弱で幕政に関わる事は無理である。

父上は、田沼派が牛耳る幕閣に強い不満を抱く御三家と

結託して政敵の意次を追い出すため、

着々と、準備をなさって来られた。

ついに、その時が来た様じゃ」
 
 家斉は、尻についた砂をはらうと答えた。

「上様。今一度、民部卿と話し合われては如何でござるか? 」

 水野が、家斉を促した。

「そちだけ、先に戻れ。わしは、ちと、野暮用がござる」
 
 家斉は、宇治之間には戻らず大奥の方へ向かった。

 家斉が、奥向に足を踏み入れた途端、

その場に居合わせた奥女中たちが色めきたった。

好奇の視線を浴びながら、廊下を闊歩していると庭の方から、

何やら、威勢の良いかけ声が聞こえた。

縁側から庭を眺めると、見知らぬ武家の娘が、

数人の奥女中と共に額に汗を光らせて薙刀を振っていた。

「あの勇ましい女人は何者である? 」
 
 家斉は、通りかかった奥女中を捉まえると訊ねた。

「あの女子は、別式という武芸指南役でございます。

種姫様付御中臈らに、薙刀や馬術の稽古をつけております」
 
 奥女中がお辞儀すると立ち去った。

家斉は、一目で、その別式の美しさに心奪われた。

家斉が見とれていると、その別式が、家斉に気づいてお辞儀をした。

「その方、名を何と申す? 」
 
 家斉は、縁側からその別式に声をかけた。

「押田耀(てる)と申します」
 
 耀が、はつらつとした表情で名を名乗った。

 耀は、先祖代々、本丸小姓を務める押田氏の娘で、

家治に仕える小姓の押田勝長の妹にあたる。またの名をお楽という。

「勇ましい娘だと思うて、見ておったが、

武芸の腕前だけでなく、器量も良い。

いっその事、奥向に仕えたらどうじゃ? 」
 
 家斉は鼻の下を伸ばした。

「いたみいります」
 
 耀は頭を下げた。

「大崎局に、そちを部屋方にするよう申し伝える」
 
 家斉は満面の笑みを浮かべた。

「恐れながら、私はすでに、

種姫付の御中臈となる事が決まっております」
 
 耀は、お辞儀すると稽古を再開した。

 家斉は、その足で、大崎の元へ向かった。

大崎の部屋を訪ねた時、ちょうど、火之番のお伊曰が来ていた。

「その方は確か、火之番のお伊曰ではないか? 」

「さようにございます」
 
 家斉は思い出したように言った。お伊曰がその場に平伏した。

「この者をご存じでしたか? 

奥女中の分際で、御役御免を直訴するとは、

身の程をわきまえるよう叱りつけておった次第」
 
 大崎が、眉間に皺を寄せて言った。

「お伊曰は、うら若い娘じゃ。成り行きとはいえ、

桜田屋敷へ追いやった事は浅はかだったかもしれぬ」
 
 家斉は、お伊曰を庇った。

「あろう事か、この娘は、蓮光院様の病は治った故、

して差し上げる事は何もない、

前の職に戻して欲しいと直談したのでございます」
 
 大崎が横目で、お伊曰をにらんだ。

「まことの話でございます。傷も治りましたし、

身の回りのお世話は、お付の御女中らがしております。

これ以上、看病は不要かと存じます」
 
 お伊日がきっぱりと告げた。

「そういうことじゃ」
 
 家斉が、大崎に言った。

「蓮光院様を襲った刺客も未だ、見つかっておりませんし、

蓮光院様の侍医は、蓮光院様は、心の病を患った故、

御傍で見守る者が要ると申しております。

お伊曰は、上様の申し伝えにより、

蓮光院様の看病人となりました。

故に、私が独断で任を解く訳には参りませぬ」
 
 大崎が神妙な面持ちで告げた。

「お伊曰。蓮光院の看病人の任を罷免し、

新たに、於富様付御中臈を申し伝える。

大崎。そなたには、蓮池院の新たな看病人捜しを申し伝える」
 
 家斉は、それぞれ、2人に命令した。

「ありがとう存じます」

「承知しましてございます」
 
 2人は、それぞれ、別の感情を抱きつつ命を受けた。

「もう、下がるが良い」
 
 大崎は、お伊日を下がらせるとお人払をした。




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