第37話 逢引

文字数 2,195文字

そのころ、大崎は、一橋藩邸に来ていた。

治済、直々の呼び出しとあって拒む事も出来ず

緊張した面持ちで、治済と対面した。

「久方ぶりじゃのう。変わりないか? 」
 
 治済が穏やかに訊ねた。

「おかげ様で、つつがなく過ごしております」
 
 大崎は、治済が、昔と変わらず、気さくであったので安堵した。

「もちっと、ちこう、寄らぬか」
 
 治済が、大崎を手招きした。

 大崎はおそるおそる、前へ進み出た。

視線を感じ、顔を上げた瞬間だった。

すぐ近くに、治済の顔があった。大崎は驚きのあまり腰を引くが、

治済が強引に、大崎の背中に手を廻すと大崎を抱き寄せた。

「何をなさいますか? 」
 
 大崎は、恥ずかしさのあまり、思わず、顔を背けた。

「その昔、そなたが、路頭に迷った時、助けてやったではないか? 

今こそ、その恩を返す時ではないのか? 」
 
 治済は、大崎の顎を掴むと強引に自分の方に顔を向かせた。

「その恩は、果たしたつもりです。恩は、乳母として、

豊千代君のお世話をして返せば良いと仰せ下さったではないですか? 」
 
 大崎は、必死に、治済を押し退けようともがいた。

「そなたを家治公から貰い受ける事は容易ではなかった。

何せ、そなたは、家治公の御寵愛を受けておったからな。

どれだけ、代価を払った事か。

豊千代を世話したぐらいでは足りぬわい。

そなたも、田沼意次を殺したい程、憎んでおったではないか? 

わしと手を組んで損はなかろう? 」
 
 治済は、大崎の懐に手を差し入れると耳元でささやいた。

「お戯れはおやめくだされ。さもないと、人を呼びますよ」
 
 大崎は、治済を突き飛ばすと、這うようにして襖の方へ逃げようとした。

「呼んでも、誰も参らぬ。屋敷には、わしとそなたの2人きりじゃ」
 
 治済が言った。

 気がつくと、日が暮れていた。

急いで帰らなければ、門限に間に合わない。

大崎は急いで、身づくろいをした。

「柳営は目と鼻の先じゃというのに、斯様にあわてずとも良かろう」
 
 治済が、大崎の耳元でささやいた。

「此度の件は、何卒、墓場まで持って行ってくだされ」
 
 大崎が神妙な面持ちで告げた。

「そちは、わしを忘れる事が出来るのか? 」

  治済がニヤリと笑った。

「忘れるように努めます」
 
 大崎が俯き加減で言った。

「御側御用取次の横田準松を知っておろう? 

彼奴は、幕閣だけでなく将軍家にも災いをもたらす。

ただちに、幕閣から追い出さねばならぬ。手を貸してくれるか? 」

 治済は、大崎の手を握ると訊ねた。

横田準松は、側衆でありながら、幕閣人事に口を挟み、

田沼派の大老井伊直幸、若年寄井伊直朗。

そして、大奥の田沼派御年寄達と結託して、

田沼意次罷免撤回と松平定信老中擁立を阻止する運動を行っていた。

「その様な事、私には無理でございます」
 
 大崎は必死に拒んだ。

大奥御年寄が、幕閣の人事に干渉するという話は聞いていたが、

はたして、出戻りの自分に出来るのか自信はなかった。

「横田を失脚させてくれたら、側室として迎えてやっても良いぞ」
 
治済は、大崎の手をなでながら言った。

「貴殿には、於富様という正室がおられますし、

私は今や、将軍付老女でございます。

大奥に上がって以来、大奥に骨を埋める覚悟で、

役儀に取り組んで参りました。

貴殿の側室になるなど、悪い冗談としか聞こえませぬ」
 
 大崎は、大きく首を横に振った。

「御中臈の中には、御三家や御三卿に、

見初められて嫁ぐ者も少なくない。

於富も、本丸で奥勤めをしていた頃、

わしが見初めて、公方様より、

貰い下げられて御中臈として引き取った。

叶わぬ夢ではござらん」
 
 治済が、大崎を必死に説得した。

「斯様な事、まことに、出来るとお思いですか? 」
 
 大崎は思わず、訊ねた。

「公方様は、若年故に、補佐役なしでは、

まともに、政務を行う事は無理じゃ。

公方様は、誰よりも、わしを頼りとしておられる。

わしが所望した事となればお聞き届けくださる」
 
 治済が咳払いして言った。

「殿の事は昔から、お慕いしていましたが、

今生では、添い遂げられぬ御仁だと諦めておりました」
 
 大崎が、治済を熱い目で見つめた。

「公方様に、言上するだけじゃ。

公方様から信頼篤いそなたならば、出来ぬ事ではなかろう。

そなたは、必ずや、密命をやり遂げると信じておる」

「殿の側室になる事が出来るならば、如何なる苦労も耐えられます」

 数日後の昼下がり。大崎は、御休息之間に姿を現した。

治済から得た情報によれば、横田準松は、

政務上の重要な報告を家斉に知られぬようにひた隠しにしているという。

「公方様。お伝えせねばならぬ儀がございます」
 
 大崎は、御休息之間上段に居る家斉に近づくと、その場に平伏した。

「今は、ちと、忙しい。次にしてくれるか? 」
 
 家斉は背を向けたまま言った。

「それでは、間に合いませぬ」
 
 大崎が、家斉の傍らに座った。

「相分かった。話すが良い」
 
 家斉が筆を置くと横を向いた。

「近頃、折からの米価の高騰により、

市中では、米屋が襲われる騒動が頻発していますが、

御側御用取次の横田準松は、それを知っていながら、

公方様への御報告を怠っております」
 
 大崎が冷静に告げた。

「それはまことか? 」
 
 家斉が身を乗り出して訊ねた。

「民部卿より、これをお預かりして参りました。

目を通して頂ければ、私の申した事を御尊名頂けるかと存じます」
 
 大崎が、治済から預かった書状を差し出した。
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