第42話 返り咲き

文字数 2,336文字

治済と関係した事を悔やみ自分を責めていた分、家斉の優しさが身に染みた。

家斉に続いて、大崎が、【御小座敷】を出る直前、

廊下を走り去る人影があった。

大崎は、涙をふいて気持ちを入れ替えると、

何事もなかったように毅然とした態度で廊下を歩いて行った。

家斉が、治済に宛てて家斉が、

治済に大崎を貰い下げ一橋家へ御中臈として

引き取らせる件を断る書状を送り、

ひと段落ついたと思った矢先、京都から、新たな問題が舞い込んで来た。

天明7年、6月7日。京都やその近郊から、

突如、大勢の人たちが御所周辺に集まり出し、

天明の大飢饉により、困窮する民衆の救済を訴えるため

御所の周りを廻り千度参りするという事件が起きた。

翌8日。願い事や訴え事の書かれた紙で包まれた銭12文が

御所の南門や唐門に投げ込まれるという事件が起きた。

当初は、数人だったが、日を追う毎に、数が増え、

3日目には3万余になり御所を中心とする京都の街は

大勢の人たちであふれ、一躍、お祭り騒ぎになったという。

 京都所司代は、朝廷に、千度参りの差し止めを申し入れるが、

朝廷は、信心から発せられた事だとして申し入れを突っぱねたという。

後桜町上皇から、3万余のリンゴが配られた他、

上皇に賛同した公家からお茶やにぎりめしなどの差し入れがあった。

この事態を重くみた光格天皇は、

京都所司代代を通じ幕府に対し飢饉により

困窮する民衆の救済を求めて来たのであった。

天皇は、即位して以来、中世から途絶えた朝儀の再興や

朝権の回復運動に熱心に取り組んでいる事から

【宝暦事件】を引き起こした桃園天皇を彷彿させた。

幕府は、天皇が、家斉の将軍就任と天明大飢饉をきっかけに、

【徳政】を求めて来るのではないかと懸念した。

御千度参りが始まって約1週間後、武家伝奏の油小路隆前は、

御所に参内した京都所司代の戸田忠寛と面会し

天皇の意向を受けた関白鷹司輔平の命令伝達と

幕府への申し入れを書いた書付を手渡した。

 幕府は、京都の朝廷からの申し入れが江戸に届く前、

5百石の御救い米支給を決定したが、

朝廷からの申し入れを受けて、さらに、5百石追加した。

江戸では、朝廷が幕府に申し入れする直前の同年、5月22日。

幕府は、困窮者に対するお救いの実施を決定し、

勝手係老中の水野忠友は、町奉行に対し、

支援を必要とする者の人数の確認を命じた。

町奉行は、支援対象者を36万2千人と見積もり、

1人につき、米1升の支援を要する事を水の忠友へ報告した。

町奉行からの報告を受けた水野忠友は、

勘定奉行に対して、2万両を限度として

支援対象者1人当たり銀3匁2分を支給するよう命じ、

その数日後には、実際にお救い金として町方に引き渡された。

また、5月24日からは、米の最高騰時の約半額で

米の割り当て販売を開始し、

困窮した者たちは、給付されたお救い金で

米を購入することが出来るようになった。

同じ頃、民の間でも、町内で、屋敷持ちの商人や

江戸近郊の豪商などが資金を提供して困窮者に対する支援を行い、

各町内では、寄合が開かれ、町奉行公認の施行がはじめられた。

 同年、11月には、施行に尽力した

関係者や町に対して褒賞がなされ、

総額547両あまりの褒賞金が支払われた。

打ちこわし騒動の最中、蓮池院の身内にあたる

関東郡代の伊奈忠尊が、勘定所吟味役上首格から小姓番頭格に昇格した。

 幕府は、代々関東郡代として実績を挙げていた伊奈氏が、

米不足が続く江戸に大量の米を集める最適任者であると判断し、

伊奈忠尊に、江戸町方の救済を行うように命じたと考えられる。

伊奈は敏速に、江戸市中の名主を集めて

伊奈氏による町方救済の支援を要請した上、

町方救済のために交付された20万両で、

関東地方に限らず、甲斐、信濃から奥州に至るまで

家臣を派遣して米を買い集め、短期間で、大量の米を江戸に集めた。

6月には、伊奈が買い付けた米が、

江戸の各町内へ分配され江戸に活気が戻るきっかけとなった。

その一方で、町奉行の曲淵景漸は、

打ちこわし発生前の町方からの嘆願に

真摯な対応を行わずに大騒動を引き起こすきっかけを作った事と、

打ちこわし発生時の対応が悪かった事が咎められ、

江戸城西丸御留守居役に左遷された。

また南町、北町領両行所の与力の総責任者である年番与力に対しても、

江戸追放、お家断絶の処分が下された。

大奥では、蓮光院の縁者にあたる伊奈忠尊が、

幕府の資金等を使い、各地から買い集めた米を江戸市中に放出し、

事態を収拾させたという話題で持ち切りであった。

「天明の打ちこわしの騒動を収拾させたのは、

伊奈様の人気と手腕の賜物だと、市中では評判になっているそうよ」

「私は、米の買付で御上に借金したけど返せなくて、

伊奈家と幕府との間に、確執が生じて御家騒動に発展したと聞いたわ」

「もとより、無利子で幕府から、借金をしていたというじゃない。

危機感を募らせた伊奈氏譜代の家臣が、

伊奈様に連判状を送って家督移譲を迫った事が、

伊奈様の怒りに触れて、首謀者が処罰されたそうよ」

「蓮光院様の父御が、天領の百姓らに

栽培を推奨して作らせたのらぼう菜という西洋野菜が、

飢餓から民を救ったという逸話も、

借金と御家騒動で台無しじゃない? 」

 上臈御年寄の高丘は、長局中に広まった噂を何とか、

蓮光院の耳に届かないよう食い止めようと

配下の御中臈たちに監視させて噂する奥女中たちを厳重注意させていた。

しかし、噂は、静まる事なく【桜田屋敷】にまで広まった。

家治の崩御により、心の病を患っていた蓮光院は一度は、

忘れ去られた自分の事が再び、大奥で、脚光を浴びていると勘違いした。

また、家斉の取り計らいにより、

於富付の御中臈に昇進したお伊曰は火之番だった頃、

散々、いびられた先輩女中たちをあごで使う事に快感を覚えていた。


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