第36話 直談判

文字数 3,028文字

「恐れながら、奉ります。御三家が、

主殿頭の後任に推挙すると思われる越中様の出白は、

御三卿の一家にあたる田安徳川家である上、

妹御は、先代の養女にあたる種姫様にございます。

家重公の御代、将軍の親類を重職につける事を禁じると

内規で定められているとして、

親藩にあたる越中殿を幕閣の重職にあたる老中首座につけるのは、

はなはだ難しき事であると、身共は言上する所存でございます」
 
 続いて、滝川が恭しく述べた。

「わしも、それについては聞き及んでおる」
 
 家斉は考え込んだ。

 親藩は、法の定めにより幕閣の重職にはつけない。

立派な反対理由になるかもしれない。

「将軍就任を控えておる大事な時期に、

斯様な事態になった事、申し訳ございませぬ。

なれど、越中殿が、老中主座に就く事相成れば、

奥向に対する風当たりも、いっそう、強くなるのではないかと、

皆が、不安に思っている事を御尊名賜りたく存じます」
 
 高丘は、きっぱりと告げた。

「わしも、何も考えていない訳ではない。

ただ、国の本幹を揺るがす大義故に、

慎重に取り計らわねばならぬ」

 家斉が顔を曇らせた。正直、何も思い浮かばなかった。

将軍となる事が出来たのも、父の力こそあれなのだ。

偉大な父に敵うはずがない。

「上様。恐れながら、お願いしたい儀がございます」
 
 大崎は、その場に平伏すと話を切り出した。

「遠慮はいらぬ。何なりと申せ」
 
 家斉が、大崎の顔をのぞき込んだ。

「私に、将軍付老女として、幕府の意向を御三家へ伝える

役儀を果たさせて頂きとうございます」
 
 大崎が顔を上げると告げた。

「相分かった。そなたに任せよう。

明日にでも、尾張藩邸に赴きこれを渡せ」

  家斉が書状を大崎に手渡した。

「かしこまりました」
 
 大崎は書状を頭上に掲げた状態で、深々と頭を下げた。

家斉は、二度にわたり、大崎を尾張藩邸に遣わせ、

拒否の回答をしたが、治済が先手を打ち、

尾張藩主の徳川宗睦や水戸藩主の徳川治保と

密議を凝らして説得にあたっていた。

しかし、治済は、定信が意中の人物だと発言する事を控えた。

治済は、御三家の方から、定信が意中の人物だと

言い出すように仕向けたのであった。

意次の失脚はもはや、避けては通れない状況に遭った。

大崎が、尾張藩邸から戻ったと知った家斉は、

早速、大崎を御座之間へ召し出した。

「して、向こうの出方は、どうじゃった? 」
 
 家斉が身を乗り出すと訊ねた。

「此度で、二度目という事もあって、

先方も、慣れたモノでございます。

世間話をした後、体よくあしらわれましたが、

こちらとしても、引き下がる訳には参りませぬ。

どうにかねばって、家用人に書簡を届ける事が出来ました」
 
 大崎が穏やかに答えた。

「将軍の書状を無下には出来る訳がなかろう」
 
 家斉は大きくうなづいた。

「上様。尾張藩邸で、何方とお会いしたと思われますか? 」
 
 大崎が上目遣いで訊ねた。

「何じゃ、勿体ぶらず、申してみよ」
 
 家斉が口をとがらせた。

「松尾流の家元が、ちょうど、おいでになった故、

それとなく、元水戸徳川家家臣の熊蔵について伺ったのですが、

その様な者は、預かっておらぬと申しておりました。

いったい、どういう事なのでしょうか? 

まことに、あの者は、松尾流の御茶師なのでございましょうか? 」
 
 大崎は、顔を近づけると小声で言った。

「水戸徳川家が、素性に疑わしき者を召し抱えるはずがなかろう。

偽言だとしたら、鶴千代も、グルになって、

わしを騙していた事になるではないか? 」
 
 家斉がムキになって反論した。

「もう一つ、お伝えせねばならぬ事がございます。

私が、尾張藩邸に参る前日、薩摩守が奥向へ訪ねて来られて、

上様は、主殿頭を罷免するおつもりなのかと聞かれました。

何故、その様な事を尋ねるのかと聞いたところ、

中野定之助が、居屋敷にて催した茶席にて、

招いた者らの前で、上様は、近じか、主殿頭を罷免し、

田沼派の幕臣らを一掃なさる所存だと

申したそうなのでございます。

それを聞いた直後は、信じがたかったのでございますが、

とくと、考えますれば、私が、上様から、

尾張藩邸へ赴く事を申し伝えられたあの日、

あの者から、民部卿の御様子を訊ねられました。

あの者は、上様に、何か、申しておりませんでしたか? 

また、勝手な真似をしているのではないかと、

不安で仕方がございませぬ」

  大崎は、心配そうに言った。

「余計な事をしおって。これでは、すべてが台無しではないか」

  家斉は肩を怒らせた。

「少なくとも、薩摩守は、主殿頭が老中を

罷免になる事を望んではおらぬようです。

薩摩守が、お味方になってくだされば心強い」

 大崎は、声を弾ませた。

「意次の取り計らいにより、岳父は、御三家に準ずる待遇を受け、

江戸城の殿席も、大廊下の間に移されたと聞く。

岳父はその事で、意次に恩を感じておるのかもしれぬ」
 
 家斉は腕を組んで思案した。

「何故、民部卿は、主殿頭を罷免なさりたいのでございましょうか? 

以前は、そうではなかったはずです。

二人の間にはいったい、何があったのでしょうか? 」
 
 大崎は不安そうに言った。家斉も、大崎と同じ思いだった。

 天明7年、4月15日。家斉は、征夷大将軍に就任した。

正式に、将軍に就任した事により、

役儀が増えて、家斉は、多忙を極めた。

一方、幕閣の人事論争は、意次が、老中依願御役御免し、

鴈之間詰となった事により、一時、休戦を迎えた。

ある日の昼下がり、家斉は、政務の合間を縫って御忍で外出した。

浅草寺に参拝後、伝法院で休んでいると、

御伴して来た小納戸の定之助がすり寄って来た。

「公方様。民部卿は、田沼派が牛耳っている幕閣においては、

役人の登用は、器量ではなく、

幕閣や大奥の重役の間ではびこる賂により、

左右されていると危惧しておられます。

吉宗公が行った享保の改革にならい、

民の信頼を得る政を行う為には、

堅実で政に明るい者を老中とした上で、

優れた人材を登用するべきだとお考えにてござる。

大崎局を公方様の名代として、

尾張藩へ出向かせて、説得を試みた所で

民部卿との間に確執が残るだけでござる」
 
 定之助が意気揚々と進言した。

「父上は、越中がまだ、賢丸と呼ばれていた時代、

余を家基君の有力な後継者とする為、

意次を田安家に遣わせ、上意と欺き、

田安家に、賢丸と白河藩主との養子縁組を迫ったのじゃ。

田沼一族は代々、一橋家の家老を務めるいわば、一橋の舎人家じゃ。

父上は、御三家と御三卿を丸め込んで、意次を幕閣から追い出し、

政敵であったはずの越中を意次の後任に据えようとお考えなのじゃろ」
 
 家斉は、治済に脅威を感じていた。

「大崎局は、一橋家の御中臈時代、

主君の民部卿を慕っていたと聞き覚えがござる。

お慕いしていた主君に、頼まれたら、嫌とは言えぬでござろう」
 
 定之助がカステラを出すと言った。

「大崎が、父上を慕っていただと? 

その様な話、デタラメに決まっとる」
 
 家斉は、カステラをむしゃむしゃと食べはじめた。

「大崎局はその昔、おさきと言う名で、

奥勤めをなさっていた事があり、

大崎と名を変えて、将軍付老女として再び、

大奥に現れた時には、誰もが驚いたそうでございます。

恐らく、その頃、大奥を訪れた一橋民部卿に見初められて、

一橋家の御中臈として貰い下げられたのではないでしょうか? 

そうなると、大崎局は、於富様より先に、

一橋様に見初められた事になりますが、

何故、側室になさらなかったのでしょうか? 」

 定之助が首を傾げた。


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