第35話 野望

文字数 1,456文字

「蝦夷地の探検隊に参加した最上徳内が、

蝦夷地に戻る事を願い出ております。調査は中止となったが、

あの者が、蝦夷地の開発に懸ける思いは、並大抵のものではござらん。

松前藩の動向も気になりますし、

蝦夷地の調査はやはり、続けるべきかと存じます。

探検隊を再び、蝦夷地へ赴かせる事をお許し頂きたい」
 
 意次が必死に訴えた。

「最上は幾度となく、蝦夷へ侵入しようとして、

松前藩に目をつけられているそうではないか? 

斯様な不届き者を蝦夷へ赴かせる訳には行かぬ」

 家斉がため息交じりに言った。

「何かが起きてからではおそい。先日、赤蝦夷人が、

蝦夷地に迫っているとの報告が幕閣にありました。

赤蝦夷は、我が国との通商を要望しておるようでござる。

また、赤蝦夷は長崎などに開港して、

蝦夷地の金銀を発掘して、

交易を開く事を提案する絶世論家もおります。

是非とも、これを一読いただきたい」
 
 意次は、家斉に、工藤平助著の【赤蝦夷風説孝】を差し出した。

「相分かった。老中らに、

蝦夷地開発を再開するべきか否かを評議させる」
 
 家斉は、神妙な面持ちで書物を受け取ると告げた。

「恐れながら、幕政を重臣に委ねるのではなく、

今後は、将軍親政をお考えになるべきかと存じます」

 意次は幕政の一線から退いてはいたが、

今も尚行く末を案じていた。

「先代はどうあれ、わしは、委ねたつもりはない」
 
 家斉が咳払いすると言った。

「ところで、御休息之間の床の間にかかっていた掛け軸ですが、

外された方がよろしいかと存じます」

  意次は何故か、床の間に飾られていた掛け軸の話を持ち出した。

「何故、斯様な事を申す? 」

 家斉は口をとがらせた。

「飾るならば、他にした方が賢明かと存じます」
 
 意次は意味深な台詞を残した。

 天明7年の春。意次の罷免撤回嘆願書が幕府に提出された直後、

治済は、大崎宛てに、次期老中首座に

松平定信を推挙する旨の書状を送った。

定信がいかに、老中首座に相応しい人物なのかを褒め称える内容であった。

 大崎から、書状を見せられた家斉は、

御三家から申し出があった事もあり、

どちらにつくべきか迷っていた。

幕閣内では、老中の水野忠友が中心となり、

家重の時代に、将軍の縁者を幕政に

関与させてはならないという御上意があったと主張し、

定信の老中首座就任を反対していたが、

治済は、将軍の縁者とは、母方の親類の外戚をさし、

定信は、それにあたらないと主張した。

 そこで、家斉は、田沼意次の罷免撤回を望んでいると思われる

上臈御年寄の高丘と御年寄の滝川を呼び出して詳しい話を聞く事にした。

大奥では、徳川治済の味方となった他の御年寄たちの目があるため、

場所は、普段は、外に出る事の叶わない奥女中も、

表向き、代参と称して、外出する事が出来る増上寺を選んだ。

大崎と共に、増上寺に参拝した2人は、

寺僧に、2人に会いたいという要人が待っていると聞いて、

緊張した面持ちで母屋へ向かった。

2人が案内されたのは、増上寺にある将軍の間であった。

この時、初めて、2人は、自分たちを待つ貴人が、

上様である事を知ったのであった。

「その方らを召し出したのは、言うまでもない。

田沼意次の進退について、意見を伺う為である」
 
 家斉は何時になく、厳しい表情で家斉の前に

両手をついて平伏す2人に告げた。

「身共は、主殿頭の罷免撤回を切に願っております。

何卒、お聞き入れくだされ」
 
 はじめに、高丘が緊張した面持ちで告げた。

「その為には、御三家や御三卿が納得する理由がなくてはならぬ」
 
 家斉は、父の偉大さに改めて圧倒されていた。
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