第38話 御救い願い

文字数 2,782文字

それは、治済が独自に、調査した結果を書き起こしたものであった。

天明7年、5月。全国各地で、打ちこわしが発生して、

江戸においても、奉行所も収拾がつかぬ稀に

見ぬ激しい打ちこわしが発生した。

打ちこわしを目撃した者の話では、

打ちこわしに参加した者たちは、

世の中を救うためであるという大義名分を掲げ、

日頃、米を買い占め、売り惜しんだ商人たちよ、

民の苦しみを思い知るが良いなどと大声を上げていたという。

蔵や米問屋が建ち並ぶ浅草蔵前や小網町の辻などの各所に、

【天下の大老、御奉行から諸役人に至るまで、

米問屋と結託して賂を受け取り、関八州の民を苦しめている。

その罪の故、わしらは、打ちこわしを行うに至った。

もし、我々、朋輩のうち一人でも捕縛して

吟味にかける事すれば、大老をはじめ、

御奉行、諸役人に至るまで生かしておけない。

我々は、幾らでも、大勢で押し寄せるし、

そのこと厭いはしない、かくなる上は、

人々の生活が成り立っていけるような幕政を叶える事】といった内容が

書かれた木綿布の旗が立てられたという。

しかし、打ちこわしが発生し、市中が大混乱に陥る中、

江戸城内の御用部屋では、町奉行、寺社奉行、勘定奉行が密会し、

対策を話し合ったが、他の2人が、町奉行に対し、

何故、町奉行自らが指揮を執り、

騒動の鎮圧の為、現場に出向かないのかと批判した。

それに対して、町奉行の曲淵景漸は、

「この程度の事で、いちいち、拙者が

出向かずとも良いではないか」と反論したという。

勘定奉行の久世広民は、「いつもはボヤだけでも出向くのに、

此度の様な非常事態に町奉行が現場に

出向かないというのは如何なものか」と厳しく批判した。

此度の打ちこわしで襲撃された商家の件数は五百軒余り。

その内、四百軒以上が米屋、搗米屋、

酒屋などの食料品関連の商家である。

よって、此度の打ちこわしは、米を中心とした

食糧不足に抗議の為に起こした食糧暴動であると思われる。

「大崎局。余は、そなたのおかげで、ようやく、目が覚めたぞ」
 
 家斉が言った。

「民部卿は、腐敗した幕政を立て直す事が出来るのは、

公方様しかおられぬ。

公方様ならば、正しき御決断をなさると

信じていると申しておられました」
 大崎が神妙な面持ちで告げた。

 翌日の朝、家斉は、出勤して来た

御側御用取次達を御座之間に呼び出した。

出勤早々、定之助から、中奥の御座之間で待つ様にとの

御上意を伝えられた御側御用取次達は、

何事かとささやき合いながら、

土圭之間にて、家斉の御出ましを待った。

家斉は、約束の時刻より、わざと、おくれて御側衆の前に姿を現した。

「それへ」

 御座之間の前に、着座平伏した

御側御用取次達に対し、家斉は声をかけた。

横田準松が、御座之間に入り、家斉の御前に着座平伏した後、

他の者たちも、御座之間に入り、横田の後ろに横に並んで着座平伏した。

「公方様の御尊顔を拝し、恐縮至極にございます」

  横田が代表して挨拶を述べた。

「苦しゅうない。面を上げぃ」
 
 家斉が仏頂面で告げた。

「いたみいります」
 
 横田がおずおずと顔を上げた。

「昨年は、風冷害により、全国各地で凶作となり、

米の収穫高が激変したという。

米価の高騰により、困窮する民はおらぬか心配じゃ。

幕府は、去る天明六年、天明四年に施行された

米穀売買勝手令を再発布し、

米の流通を活性化させる事により、米価の引き下げを図ったというが、

その後の報告が届いておらぬというのは、どういう訳じゃ? 」

  家斉が、厳しい口調で問いただした。

「家治公崩御という凶事に、老中首座の罷免が重なり、

政局に混乱が生じました故、報告が遅れた次第にござる」
 
 横田が冷静に答えた。

「幕閣で、何が起きていようと、

民には一切、関わりのない事ではないのか? 

斯様な言い訳は通用せぬ」

 家斉が冷ややかに告げた。

「江戸や大阪へ向けて、流通は活性化したものの、

自由化を図った事が災いして、脇々米屋素人という定められた業者以外の商人が、

投機目的で米を買い占めた為、流通量は思いの他、増えず、

米価沸騰はおさまりませんでした。結句、成果を上げる事無く、

米穀売買勝手令は、昨年末に廃す事となった次第にござる」
 
横田が神妙な面持ちで告げた。

「勿論、町政を預かる町奉行は、

ただちに、対策を練り、対処したのであろうな? 」

  家斉が、横田を見据えた。

「米価が高騰した事に、たまりかねた町民が、

連日、御番所前へ、多勢で押しかけ、お救い願いを出すようになり、

町奉行以下諸役人共は、その対応に追われておる様でござる」

  横田のすぐ後ろにいた小笠信喜が冷静に告げた。

「連日、御番所前へ押しかけ、

お救い願いを出す者が絶えないというのは尋常ではなかろう」
 
 家斉が腕を組んで言った。

「何とか食いつなぐようにとの趣旨と

思われる通達を行った様でござる」

 横田がすかさず告げた。
 
「困窮する民を多く抱えた各町では、

町名主や町年寄の自粛要請がなされ、

御救い願いに至らなかったという事もございますし、

御救い願いが、あまりにも、殺到したため、収拾がつかなくなり、

南北の年番名主からの御救い願いを却下したと聞いております」
 
 小笠原が町奉行所の対応を批判した。

「若狭守。その話を、何処の誰から聞き知ったのじゃ? 

町奉行から、通達の後は、平穏無事だという報告があったではないか? 」
 
 横田がふり返ると反論した。

「町奉行からの報告に納得が行かず、独断で調べた次第」
 
 小笠原は毅然とした態度で答えた。

「米がなければ、他の物を食えば良い。

高値でも、無理に買おうとする故、

問屋や仲買が、儲けようと出し惜しみをして値が上がるのじゃ。

精を出して働けば、その内、景気も良くなる」
 
 横田は強気な態度を示した。

「両国橋や馬喰所に置かれた御救小屋を視察しましたが、

列に並んだすべての者らに、おむすびが行き渡ったのか定かではござらぬ。

このままでは、餓死者が出るかもしれません」

  小笠原は、横田の隣に進み出ると訴えた。

「さもあろう」
 
 家斉は、横田をチラリと見やった。

「公方様。町奉行以下、諸役人らは、

休日返上で、連日、対応に追われております。

いましばらく、お待ちくだされ。必ずや、騒ぎを鎮める事でしょう」
 
 横田が神妙な面持ちで告げた。

「御用取次を何と考える? 」

 家斉は、横田をにらみつけると訊ねた。

「御上意を老中に、上奏を公方様に

お伝えする役儀を持つ者でござる」

  横田が緊張した面持ちで答えた。

「して、そちの元には、報告が来ているはずだが、

余には何も伝わっておらぬ。そちは、役儀を怠った事になるのではないか? 

よもや、そちが、直に、町奉行に沙汰しているではあるまい」

  家斉は、疑うような眼つきで訊ねた。

「全くもって、身に覚えのない事でござる」

  横田が身の潔白を主張した。

「もう良い」

 家斉はもう、話しても無駄だと匙を投げた。

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