第39話 辞意

文字数 2,939文字

先代の時と同様にして、側近たちは、将軍の手を煩わせる事なく、

自分たちの力で、解決しようと考えているのだ。

その事が、家斉をイラつかせた。

元来、好奇心旺盛で、興味を持った事はとことん、突き止めなければ

気が済まない性分の家斉は、将軍としての自覚に目覚めつつあった。

世の中の動きに疎くては、幕政は行えないとして、

世子の頃から、巷で流行している書物を取り寄せたり、

学者を招いて進講したりと、学問に励む一方、

一橋家に居た頃から行っている

剣術の稽古も、休む事なく続けていた。

また、本草学を熱心に、進講した甲斐あり、

薬草に詳しくなり、風邪程度の病ならば、

自ら、選んで煎じた薬湯で治す事が出来た。

横田の頑なな態度を目の当たりにして、

ますます、自分の目や耳で確かめなくては、気が済まなくなっていた。

その頃、町奉行所は、問屋や仲買に対して、

米の代わりとなる大豆の値を下げるように命じ、

民に対しては、大豆を主食にする事を勧めた。

さらに、一部の仲買商から

米を購入出来るようにすると通達した。

しかし、米価は、異常に高騰した時価のままとしたため、

米価高騰に苦しむ民の支援にはならず、

奉行所への批判は高まるばかりであった。

町奉行所は、売り惜しむ商家に立ち入り検査を行い

厳しく取り締るが効果は、一向に見られなかった。

生活苦により、家賃を払えなくなり、

食糧の入手も困難になった多数の貧民が江戸市中にあふれ、

望みの綱を断たれ生きる希望を失った人たちが、

橋から身投げする事件が相次いで起きていた。

餓死や自殺の一歩手前まで追い詰められた人々が、

世直しの為に、打ちこわしに立ち上がったのであった。

「巡検に参るぞ」
 
 家斉は居てもたってもいられず、

定之助を随え御忍で、市中の巡検に出掛ける事にした。

変装は慣れたもので、誰にも気づかれぬ事なく、

市中を歩き回った後、思い立って、町奉行所へ向かった。

門前に来た時、家斉が、身分を明かすと、

門番はあわてて、将軍の御成りを町奉行に報せた。

「御成の際は、前もって、報せて頂かないと困ります。

何か、不手際がございましたか? 」
 
 月番の北町奉行の曲淵景漸は、忙しなそうに家斉と対面した。

「さぞかし、その方らも、此度の騒動の収拾に

難儀しておるのではないかと思い労いに参った次第じゃ」

  家斉がひきつった笑顔で告げた。

「いたみいります」

  曲淵が深々と頭を下げた。

「ここに来るまで、市中を見て回ったが、

幕閣へ上がった報告とは、だいぶ、異なっていた。

通りすがりの町人から、巷で広まる風聞を聞いたのじゃが、

そちは、救いを求めて、押しかけた町民に対し、

町人は、米を食うものではない。

米がないならば何でも食えと一喝した挙句、

犬や猫を食えと追い返したというではないか? 

まことの話ならば、聞き捨てならぬ」

  家斉がざっくばらんな態度で言った。

「公方様。それは、誤解でござる。

幕閣の沙汰に従い、米の代用品として大豆を主食とするよう、

通達を出したのですが、大豆を主食とすれば、

疫病や脚気になるなどの風説が市中に広まりまして、

町民が、御番所に大勢押しかけ、

一時、町政が滞る騒ぎになった為、

やむをえず、追い返したのでござる。

通達に従わず、我儘を通そうとする町民を諫め

言う事を聞かせる事こそ、役人の務めでござる。

何も、食物は、米だけではございますまい。

米がなくとも、他の食物で食いつなげば、よろしい」
 
 曲淵が必死に言い訳した。

「その心無い言葉が、民心を傷つけて、

打ちこわしを引き起こしたのではないか? 」

  家斉がため息交じりに言った。

「拙者は、幕府から申し伝えられた事を

そのまま、民に伝えたに過ぎません」
 
 曲淵は言い逃れ様とした。

「斯様な空言聞く耳持たぬ」
 
 家斉は一瞬、ムカッと来たがすぐ、

我に返ると冷静に振舞った。

確かに、曲淵景漸の台詞に聞き覚えがある。

御側御用取次の横田準松が、

苦し紛れに言い放った台詞と、全く同じであった。

「恐れながら、町民に限らず、物価の高騰により、

困窮しておるのは、身共、武家とて同じにござる」

 曲淵が逆切れした。

「貴様らの処分については、追って報せる」

 家斉は、言い訳がましい曲淵の態度に呆れかえりながらも、

毅然とした態度を示した。

この日、家斉は、城門が閉まる寸前まで、

町奉行所で、諸役人たちと話し合った。

中奥に戻ると、意次が、御座之間で待ち構えていた。

意次は、老中を依願退職した後も、鴈之間に出勤していた。

「鴈之間詰となってから、

ちっとも、姿を見せないと思えば、待ち伏せか」

 家斉が、意次を見るなりくさい顔をした。

「お疲れのところ、恐縮でござるが、

折り入って、公方様に、お話しがあり罷り出ましてござる」

 意次は、その場に這いつくばるようにして頭を下げた。

「余は、疲れておる。手短に申せ」
 
 家斉はあくびをかみ殺した。

「公方様。病につき辞す事をお許しくだされ」
 
 意次は緊張した面持ちで、【病気御断】を提出した。

「そちが、病になるとは、信じられぬ。

いったい、何の病にかかったのじゃ? 」
 
 家斉はいつまでも、健在だとばかり思っていた意次が、

病になったと知り、あまりの衝撃に、書状を受け取る手が震えた。

「忙しさにかまけて、不摂生な生活を送った為、

そのツケが、まわったものと思われます」
 
 意次が冷静に告げた。

「席だけ残して、快復したら、復帰すれば良かろう。

そちが、辞したら、そちの為に、

今まで、頑張って来た者らは、どうなるのじゃ? 」
 
 家斉は、大奥の奥女中たちの

悲しむ姿が目に浮かび感情的になった。

「心残りがあるとしたら、政務が忙しく、

家庭を顧みなかった事でござる。

余生は、家族と過ごす事をお許しいただきたい」
 
 意次は悲痛な表情で訴えた。

「御三家が、ますます、つけあがる事は、

目に見えておるが、余儀なし事じゃ」
 
 家斉はやり切れなかった。

「それがしは、老中職を全うしたと自負しております。

先日、先代の見舞いに登城した越中殿にお会いし、

久方ぶりに話をしたのですが、越中殿より、

白河藩主との養子縁組の件で、それがしを恨んでいたが、

その悔しさが良き藩主となり、見返す力にもなったと言われ、

救われた思いがしました。何と申しても、

越中殿の政に対する姿勢が素晴らしい。

それがしが果たせなかった大奥の改革を越中様に託しました」
 
 意次が穏やかに告げた。

「和睦したとは、実に、めでたい。

越中も、藩主として苦労した事で丸くなったのじゃろう。

そちは、1度は、余の願いを受け入れ留まってくれた。

此度は、そちの本懐を余が、受け入れる番じゃ」
 
 家斉は、【病気御断】を受理した。

意次の辞意表明は、伏せられたが、

幕閣は、以前から、御三家から要請されていた

田沼派の重鎮、横田準松の失脚に向けて動き出した。

田沼派の御側御用取次として、横田の右腕として活躍していた

本郷泰行が、解任されたことは、

田沼派の幕臣たちにとって、寝耳に水の出来事であった。

 当初、横田を標的としていた治済だが、

思いの他、横田の権勢が強く、思い通りに行かなかった。

そこで、横田が信頼を置く本郷泰行を失脚させる事により、

横田を動揺させ追い詰める作戦に切り替えた。

横田は、治済の挑発に抵抗していたが、

治済は、大崎を通じて家斉に英断を迫った。

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