第7話 評定構成員

文字数 2,313文字

家斉が、将軍世子となった天明元年、

江戸では、小児病やリウマチが流行し伝承の処方と

各地の民間療法を解説した【和方一万方】が出回り、

庶民の間で、民間療法が見直された。

翌二年、江戸で、大暴風雨が発生し、西日本は、凶作に見舞われた。

幕閣においては、天明元年、老中首座の松平輝高が在任のまま急遽した為、

田沼意次の嫡子、意知の義父にあたる松平康福が老中首座に就くが、

意次の意向により、老中の水野忠友が、勝手掛けを兼務する事になった。

 勘定奉行には、松本秀持と赤井忠昌。

松本は、田沼家家老を兼ねており、赤井は、意次の強い意向により、

幕府の財務を取り仕切っていた。

御用取次の中には、家重の側用人の大岡忠光の有力な

後継者である稲葉正明がおり、意次にとって、頼りとなる存在であった。

 本来、出世の登竜門となる奏者番は、

譜代大名の中から選出される事になっているが、

意次は、権力を行使して嫡子の意知を奏者番に就かせた。

奏者番頭には、松平忠福。奏者番には、

意知の他に、家重、家治の2代にわたり、

幕閣の重職を務めた板倉勝清の嫡子、勝暁。

元老中首座の松平輝高の息子、輝和。

元老中の阿部正右の息子で、意次には、

上下銀の返済凍結の一件で恩義のある阿部正倫といった

幕閣の首脳を父に持つ子息たちがみえた。

 家治は、御意見番として、年配の加納久堅を若年寄におき、

元家基付重臣の鳥居忠意や酒井忠香を若年寄に再任するなど、

長く仕える幕臣を重用したが、意次は、田沼派の幕臣と共に、

実力のある幕臣を積極的に登用した。意知が、奏者番から、

若年寄に昇進した時には、鳥居たちの他に、

米倉昌晴・太田資愛・井伊直朗がいた。

 関ケ原の戦以降、西国大名は、

外様として幕府の要職に就けない暗黙の了解が存在した。

幕府は、西国の豊前・豊後、築後・肥前・肥後・日向を天領として、

【西国筋郡代】を設けて、

島津家・細川家・鍋島家・黒田家の外様大名の監視を怠らなかった。

また、豊臣家に縁深い大名は、徳川政権の妨げになるとして

幕閣の重職に就けないという風説もあった。

 幕閣の要職に就けない反面、

江戸城の修復などの手伝普請や国役となると、

西国大名は、真っ先にお声が掛かる。

西国諸藩の中には、臨時の出費が重なった上、

連年の天災や治安悪化の煽りを受けて借金が増大した藩もあった。

そこで、西国大名たちは、米切手を濫発することで強引な資金調達を行った。

その結果、米切手の信用不安を招き、

大阪金融市場は円滑に機能しなくなり、

大阪市場に商品を廻送出来ない大名や財務状態が悪化した

大名たちが大阪金融市場から締め出された。

 幕府は、大阪金融市場を正常に戻す為、

米切手の検査制度を設ける事にした。

【幕府御用達呉服師】の後藤縫殿助が、

米切手改役を拝命し大阪に設けられた会所を兼帯することとなった。

今まで、米切手の発行は、諸大名の裁量に委ねて来たが、

相次ぐ、不渡りを受けて、幕府は、米切手の発行量を

監視下に置く制度を設けたのだった。

 選出された大阪の貸商人11軒は、

【内密御用金】を幕府に収めることとなった。

上納された御用金は、幕府の名の下で、

自律的に資金調達の出来る大名は監視統制する一方、

資金調達が出来ないと思われる大名や旗本に貸付を行うこととなった。

米切手改印制度の改正に対して反発した毛利家・黒田家・鍋島家が、

廃止の陳情を行う騒ぎとなった。

 元々、不時の災害により城郭が破損した

門閥大名・老中・京都所司代・大阪城代・寺社奉行といった大名に

軍事的理由から貸し付ける【拝借金制度】はあったが、

天明2年に、高田藩の榊原家に貸与された後、廃止されて、

その代わりとして、【除置銀】が設けられた。

天明に入ると、幕政は、従来の【重農主義】から

【重商主義】に取って代わっていた。

江戸幕府成立当初は、農業が重視され、

世の中は、米作が中心であったが、時が経つと共に、

生糸・絹織物・茶・菜種・魚類など、

各地でその地方の特色が生かされた特産物が作られるようになった。

 幕府は、諸藩に対して、商人の同業組合である【株仲間】を公認し、

同業者以外の商人の同種営業を禁じる独占販売を認める代償として、

商人に、冥加金と運上金を上納させる。

享保の時代、禁じられていた株仲間の結成を公認したが、

幕府は、上納金の増微を目的に、株仲間の結成を奨励した。

幕府は、株仲間の結成を奨励する事により商品流通拡大を期待したが、

商人たちの間では、代償として

上納する冥加金と運上金が不評を買った。

次第に、独占販売を良いことに、値を釣り上げる業者が現れ、

物価の上昇により貨幣の価値が低下して

同じ貨幣で買える物が少なくなるという現象が起きた。

江戸を中心とする関東が【金建て】である一方、

大阪を中心とする関西は、銀を基準とする【銀建て】だった。

江戸や大阪は、経済の中心地ともすれ、

両替商が多いが商売の方法は統一されていなかった。

 通常、金は計数貨幣だが、銀は両替の度に目方を計り

その品質や数量を確かめる秤量貨幣で両替商は、

客から取った手数料により利益を上げていた。

幕府は、貨幣の価値を正常に戻す為、

金の二朱に相当する新たな銀貨を鋳造して

八枚で小判1両に換えることとした。

 また、金銀の流出防止策として長崎貿易の拡大を図った。

新たな貨幣の鋳造により、銀が不足するという新たな問題が生じていた。

幕府の政策を審議立案する為に編成された評定所構成員たちは、

早速、問題を審議するために寺社奉行宅に集まった。

構成員は、寺社奉行・町奉行・勘定奉行で編成されているが、

場合によって、老中・大目付・作事奉行が加わることがある。

意次は、【郡上一揆】の時、

その才覚を認められて以来、構成員に加わっていた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み