第64話 異国

文字数 3,157文字

キリルは、自然研究の傍ら、

イルクーツク郊外のガラス工場設立計画に携わっていた。

キリルは、師と仰ぐカール・ツンベルクが、

かつて、出島【現長崎市】に留学した際に著した

【日本植物誌】を読んで以来、

日本に興味を抱くようになったと言う。

親日家のキリルは、最初は、光太夫たちから、

日本の情報を聞きたいが為に対面したが、

光太夫たちが、帰国を切望している事を知ると、

全面的に協力すると申し出た。

それ以来、光太夫たちは、

ラクスマン一家と家族のように親しくなった。

キリル・ラスクマンの協力により、

帰国を願う嘆願書を女帝エカチェリーナⅡ世へ送るが、

光太夫たちを赤蝦夷に帰化させる方針でいた

イルクーツク総督府によって破棄された。

 寛政3年、キリルは、光太夫を伴い、

直接、女帝エカチェリーナⅡ世に

大国屋光太夫たちの帰国を直訴しようと、

同年、1月15日、帝都サンクトペテルブルクに向け出発した。

キリルと光太夫は、2月19日にペテルブルクに到着した。

しかし、着くまでの間、キリルは、腸チフスにかかり病に倒れた。

光太夫は、キリルの回復を祈りながら、必死に介護した。

大国屋光太夫の願いが天に届いたのか、

それから3ヶ月後。キリル・ラクスマンは回復した。

2人は、ツァールスコエ・セローに行幸していた

エカチェリーナ二世を追って、

同年、5月8日、ツァールスコエ・セローに赴いた。

 5月28日。ついに、光太夫は、

エカチェリーナⅡ世の謁見を賜り帰国の許可を嘆願した。

同じ頃、エカチェリーナⅡ世は、

積極的対外政策を行っていたため

日本人漂流者を帰国させれば、

鎖国の日本も通商に応じるかもしれないと期待して帰国を許可した。

 エカチェリーナⅡ世は、外務参事院議長【外務大臣】の

アレクサンドル・ベズボロドコ公爵に

漂流民送還の命を下し、9月29日。

光太夫たちの漂流民送還の勅令が出された。

光太夫は、エカチェリーナⅡ世が進める文化事業に参加して

世界言語の比較辞典の改定に携わった。

光太夫と共に、生き残った漂流民は、

キリスト教徒になる者もいて、

庄蔵と新蔵は、日本語教師として赤蝦夷に残る事を望んだ。

寛政4年、9月3日。光太夫をはじめとする

日本人漂流者3名は、

【赤蝦夷帝国使節】のアダム・ラスクマンに伴い、

根室に来航し念願の帰国を果たした。

それから、間もなくして、松前藩から根室に来航した

赤蝦夷船に日本人漂流民が、

乗船しているとの報告が幕府に届いた。

 時を同じくして、家斉は、

江戸幕府第11代将軍就任を祝う慶賀使節の正使として

江戸を上がった宜野湾朝祥から、

松前藩が、赤蝦夷や満州と

密交易を行っているとの情報を得ていた。

家斉の話を聞いて、定信も思う所があったらしく

家斉の命令に素直に従い、

最上徳内に樺太調査を命じて蝦夷地へ赴かせた。

最上徳内は、宜野湾朝祥の情報を裏付ける

確かな手がかりを持ち帰った。

松前藩から、赤蝦夷のラスクマンが、

通商を求めて根室に来航したという報告が幕府に届いたのは、

最上徳内は、松前藩の赤蝦夷や満州との密貿易や、

アイヌへの弾圧を調査する密命を受けて

松前に戻った直後の事だった。

今回は、通商を求めるだけでなく、

伊勢の船頭の大黒屋光太夫をはじめとする

日本人漂流民一行の返還のためだと言う。

寛政4年、4月20日に起きたフランス革命戦争により

フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場と化した。

赤蝦夷側は、極東の千島を領土宣言した

阿蘭陀の海軍力が手薄になったのを見計らい

日本に来航したのであった。

今まで、頑なに蝦夷地の開発や

赤蝦夷等の外交を拒んで来た定信が急に、

方針を変えた裏に水戸藩士の警告があった事に

誰も気づく様子はなかった。

しかし、家斉だけは、水戸藩の鶴千代君から、

一連のやり取りを聞いて知っていた。

かねてから、水戸藩の藩政に参与していた

水戸藩士の立花翠軒が、天下の三大患について定信に上書して

蝦夷地侵略などを警告したという。

勤王家で知られる水戸藩の藩士の警告に

耳を貸すとは信じがたかったが、

家斉が、最上徳内に、松前藩の赤蝦夷や満州との密貿易や

アイヌへの弾圧を調査する密命を下した事を黙認しただけでなく、

赤蝦夷との外交問題を評議の場で口にしたという。

水戸徳川藩主の徳川光圀が始めた【大日本史】はもとより、

幕府の為に朱子学の思想に基づいて

日本のこれまでの歴史を見直す目的があったと言われていた為、

定信は、【大日本史】の編纂には反対しなかった。

しかし、朱子学を突き詰めていくと、

尊王攘夷の思想に傾く事を知る由もなかった。

長い間、鎖国を行って来た日本では、

幕府が、オランダ商館との窓口となり、

世界情勢の収拾を行っていたが、

幕閣の中でも、欧州で起きた産業革命により、

英国やフランスなどが近代社会に転換し、

やがて、南下政策をはじめて強大化する

脅威を感じる者はほとんどいなかった。

島津重豪は、若い頃から、蘭学を学び、

ヨーロッパ文明に興味を持ち、

時々、洋学者を招いては西洋科学技術の習得に励んでいた。

西洋文化の研究に公金を費やし、

五百万石の負債を抱える事となった。

当時、幕府だけでなく、諸藩も財政難に苦しみ

巨額の借金を抱えている藩も少なくなかった。

厳しい規制や効率の悪い藩制度の下では、

画期的な改革は難しく、

家臣の家禄の減額あるいは、借り上げを行うしかなかった。

そんな状況の中で、重豪に抜擢された調所広郷は、

借金を無利子で、250年の分割払いとする強行手段に出た他、

農政改革や琉球を介した密交易などで利益を上げて、

後に、250両の蓄財を果たす事となるのであった。

幕府は、アダム・ラクスマンが、江戸に出向いた上で、

漂流民を引き渡し通商交渉を進める意思が

強い事を思い知らされたが、

松平定信は、宣諭使として、

目付の石川忠房や村上大学を派遣し

漂流民を受け入れるが、

総督ピールの信書の受理は受け入れない姿勢を見せ、

それでも尚、通商を要求して来た場合、

長崎に廻航させる指示と使節を丁寧に処遇するよう、

命令を2人に出した。

 翌、寛政5年、3月。2人は松前に到着した。

幕府側としては、ラクスマン一行を陸路により、

松前に赴かせそこで交渉する方針を示したが、

陸路により松前へ向かう事を赤蝦夷側が拒否したため、

日本側の船が同行して砂原まで船で行く事となった。

しかし、ラスクマン一行が乗っていた【エカテリーナ】号は、

濃霧に遭い、同行した【貞祥丸】とはぐれ、

単独で、6月8日、箱館に入港した。

ラクスマン一行は、箱館から陸路により松前へ向かい、

6月20日に松前へ到着し、翌日、松前藩浜屋敷において

石川をはじめとする幕府の役人との交渉に臨んだ。

交渉は2度に渡ったが、石川は、定信から命令された通り、

長崎以外で国書を受理する出来ないため

退去する旨伝えると共にラスクマンを通じ、

【請取証】を赤蝦夷側に届け、

日本人の漂流民の大黒屋光太夫と磯吉を引き取った。

また、石川は、帰国の挨拶に訪れたアダム・ラスクマンに、

宣諭使両名の署名入りの

【お赤蝦夷国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事】と書かれた

長崎への入港許可証【信牌】を交付した。

ラクスマンと決別する時、光太夫は、

ラクスマンの足下にひざまずくと、

これまでの恩義に深い謝意を示した。

ラスクマン一行は、6月30日に松前を発ち、

七月一六日に、箱館を出港した。

その後、長崎へは向かわず、オホーツクに帰港した。

家斉は、光太夫と磯吉が、家斉と謁見するため

登城する話をまとめようとした。

しかし、世界情勢は、緊迫した状況にあり、

もし、オランダが、フランスに占領された場合、

赤蝦夷が江戸に乗り込んで来る可能性があり、

もしくは、千島領やオランダ商館の権利が、

フランスに移る可能性や英国が乗り込んで来て、

三つ巴の戦場となる可能性があると、

海防消極論者達が主張してきた。

 
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