第59話 幕政

文字数 2,357文字

「そちが、掛け軸を燃やそうとした過ちは、

水に流す故に、この絵を所有する事を認めろ」
 
 家斉が交換条件を出した。

「これ以上、議論する余地はござらぬ。我はこれにて御免仕る」

  定信は、疲れた顔で【御座之間】を出て行こうとした。

「あと、もう一つ条件がある。蝦夷地の開発を再開させよ」

  家斉は、定信の背中に向かって叫んだ。

松平定信は、ふり返る事なく歩いて行った。

 家治は、西洋の天文学に造詣が深かったため、

オランダ通詞の志筑忠雄や本木良永と交流した。

本木良永は、【和蘭地球図説】や

【天地二球用法】を刊行して、

日本初、コペルニクスの地動説を紹介した。

志筑忠雄は【暦象新書】を刊行し

ケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。

 また、画家の司馬江漢が、【和蘭天説】を刊行し

地動説等の西洋天文学を紹介し、

【和蘭天球図】という星図を作り、

宝暦13年に、世界初のケプラーの楕円軌道の地動説を用いての

日食の日時の予測した医者の麻田剛立の功績を高く評価した幕府は、

麻田の弟子の高橋至時や間重富たちに

西洋天文学に基づいた暦法に改暦する様に命じた。

しかし、老中首座の定信は、

天文学の進歩に一切、目をくれる事なく

享保の改革を手本とする幕府の財政立て直しや

農村の再建に重点を置く改革に着手した。

幕府は、助郷役軽減や治水植林工事を約束し、

資金を与えて、江戸に出稼ぎに来たまま

居着いてしまった百姓たちを故郷へ帰した。

天明の大飢饉を教訓に、諸藩の大名に対して、

各地に社倉や義倉を築き穀物を備蓄する事を通達した。

それと同時に、町奉行所に、江戸に町会所を設置し、

7分積金の制を実施するように命じた。

7分積金とは、各町内が積み立てた救荒基金で、

町入用の経費を節約した4万両の7割に、

幕府の献金1万両を加えた基金の事で、

町入用の経費は、地主が負担し

木戸番銭や修繕等に使用され復興支援の一環でもあった。

さらに、旗本や御家人の救済を図るため、

札差しに対して6年以上前の債権破棄並びに

5年以内になされた借金の利子の引き下げを命じた。

江戸の人口が旧里帰農令により減少したが、

天明の大飢饉により、江戸へ流れ出た無宿人や軽罪人たちが

牢に収容しきれず溜に集められていた。

通常は、病にかかった囚人を収容する溜に、

無宿人や軽罪人たちがあふれ返り市中の治安は悪化していた。

定信は、町奉行所や牢屋敷などの報告書を読むうち、

天明の大飢饉により住む家や職を失い、

生活するためにやむを得ず窃盗やスリを犯し罪を償い

釈放されても社会復帰の目途がつかず、

再び、罪を犯してしまい牢逆戻りする者が多くいる事に気づいた。

そこで、過去の政策や文献を見直して参考となるものを模索した。

過去には、、無宿人を1か所に集めて隔離し

佐渡金山への水替人足に就かせて更生する制度があった。

しかし、水替人足は、非常に厳しい労役を

強いられるものであって、更生とは程遠いものだった。

また、安永9年に、深川茂森町に生活に困窮、

逼迫した無宿人たちを収容し更生や

職の斡旋の手助けをする救民施設儲けたが、

運営に支障をきたして、僅か、6年程で閉鎖となっていた。

犯罪人を更生させるためには、

犯罪人の心理を理解し親身になって

手助けする事が出来る人間に任せた方が良いとして、

定信は、天明7年に、火附盗賊改頭となって以来、

数々の難事件を解決させている長谷川平蔵に意見を求めた。

長谷川の提案により、【人足寄場】が設けられた。

軽罪人を収容し職業訓練や職の斡旋を行い更生させる事は、

安永9年と同じだったが、新たに、収容期間満了後、

江戸での商売を希望する者には土地や店舗を。

農民には田畑を。大工になる者には、

その道具を支給する案が採用された。

天明8年に、定信が、御所再建のために上洛した際、

安永3年に始まった江戸幕府の公称【一向宗】を

【浄土宗】に変更する是非をめぐる浄土宗と

浄土真宗の宗名論争に関与する騒動が起きていた。

定信が、帰路の途中、箱根峠に差し掛かった際、

浅草本願寺の僧3名が待ち伏せしており直訴に踏み切った。

対処に悩んだ定信は、天台宗の輪王寺に相談した。

寛政元年の3月。寺社奉行の牧野【備前守】惟成は、

公務繁忙を理由に、東本願寺に対し

【追面御沙汰有之迄、先御願中御心得たるべく候】を申し渡し、

増上寺に対し請願の可否を棚上げした。

天台宗の輪王寺が仲裁に入り、

【一万日のお預かり】をすることになった事で

論争の終結に目途がついた。

日本は、長きにわたり、鎖国政策を行い他国の船舶の来航を拒んで来たが、

近年、赤蝦夷船が、蝦夷地に来航し対応に出た松前藩に対し、

通商を求める事件や赤蝦夷人が、千島に来日する事件が起きた事もあり、

幕府は、改めて、異国船渡来の際の処置を令した。

松平定信が主導する商業政策は、

株仲間や専売制の廃止、特権商人の抑制という風に重商主義政策に対し、

真っ向から対立する内容であったが、

米価の高騰を防ぐ策として米を大量に使う造酒業に制約を加え

生産量の3分の1に削減する酒株統制は引き継がれた。

失政により、幕府の指導力は低下の意図を辿った。

幕府では、老中首座の定信が中心となり古学派や

折衷派の勢力に推されて不振気味だった朱子学を

幕府公認の学問と定めて再興させるため学制改革を行う事にした。

そこで、半官半民の性格を持っていた聖堂学問所を

官立の昌平坂学問所と改めた。

寛政2年、5月24日には、大学頭の林信敬に対して、

林家の門人が古文辞学や古学を学ぶ事を禁じる旨を通達し、

幕府の儒官の柴野栗山や岡田寒泉にも同様の通達が成された。

それだけでは終わらず、湯島聖堂の学問所で行われる講義や

役人登用試験の課題も朱子学に限られた。

また、林信敬の補佐役に、柴野や岡田に加えて、

新たに、尾藤二洲と古賀精里を招聘して

幕府儒官に任じ湯島聖堂の改築を実施した。

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