第43話 おさき

文字数 1,173文字

「蓮光院様が、何故、奥向にいらしておるのか? 」
 
 ある日の昼下がり。お伊曰は、於富の後を歩いていた時、

中庭を挟んで向こう側の廊下を歩いている蓮光院の姿を見かけた。

 この時の蓮光院は、落飾後、ずっと、身に着けていた

喪服姿ではなく十二単姿だったので驚いた。

部屋の外に出る事を嫌い、一日中、部屋に閉じ籠り、

読誦や写経をして過ごしていた蓮光院が正装姿で、

再び、目の前に姿を現したのだ。

お伊曰は、蓮光院の異変を感じ取り、胸騒ぎを覚えた。

思わず、足を止めて後ろをふり返った。

しかし、既に、蓮光院の姿は何処にもなかった。

幻を見たのかも知れない。お伊曰は思い直して、再び歩き出した。

 実は、蓮光院は、看病人の何気ない一言で、

ふと、我に返り大奥で過ごした日々が、

急に懐かしくなり、気がついたら、大奥向へ足が向いていた。

かつて、住んでいた部屋は、すでに、別の者が使用していた。

部屋をのぞいた時、誰もいなかったため、ほんの出来心で中へ入った。

その時、偶然、机の上に置いてあった文箱を見つけたのだ。

好奇心が抑えきれず、文箱を開けた。

すると、中には、書状の束がしまってあった。

宛名を見ると、【将軍付老女大崎局様】と書いてあった。

蓮光院の脳裏に、10数年前の出来事が甦った。

安永2年、疫病が流行し家治の姫君である

万寿姫も疫病にかかり13歳の若さで早逝した。

家治の哀しみは強く、万寿姫の死は、江戸城に暗い陰を落とした。

万寿姫付の御中臈だったおさきは、万寿姫の看病をしている間、

自らも、疫病にかかったとして、静養のため下がりを許された。

時を同じくして、御三卿の一橋治済と正室の於富との間に、

嫡子となる豊千代が誕生した。

大崎は、宿下がりしたまま、大奥に復帰する事なく

一橋家の御中臈となり豊千代の乳母になったらしい。

乳母には、生母の代わりに乳を与える役目もある。

独身で出産未経験のおさきには、

出来ない役目であるため違和感を覚えた。

家基の死後、豊千代が、家斉君と名を改め、

家治公の養子となり西丸に遷ったと同時に、

将軍付老女として、おさきが再び、大奥に姿を現した。

その時、御台所付御中臈のおさきと

将軍付老女の大崎とが、同一人物である事を、

おさきとその昔、親しくしていた御年寄筆頭の高丘でさえ、

すぐには、気づかなかったという。

おさきは、背が高い事を気にして猫背で歩く癖があった。

その為、どこか自信がなさそうで地味な印象が強かったが、

将軍付老女となって戻ったおさきは貫禄があった。

おさきは、御部屋様として、

一時、権勢を振るいながらも、世子の家基逝去により、

一気に、権威を失った哀れな側室の

波乱万丈な半生とは対照的で、成り上がりの半生を歩んでいた。

おさきは、宿下がりをする前は、

御台所付御中臈の1人にすぎなかったが、

乳母を務めた豊千代が将軍世子となったため

将軍付老女として帰り咲いたからだ。


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