第2話 養子

文字数 3,155文字

「定之助は、治るのであろうな? 」
 
 家基は池原に詰め寄ると訊ねた。

「恐れながら、今夜が峠と存じます」
 
 池原が神妙な面持ちで答えた。

 鷹狩から2日後の夜、治療の甲斐なくして、

定之助は、家基のまま息を引き取った。

意次が面会謝絶としたせいもあるが、

臨終の時さえ、家治は、見舞いに来なかった。

定之助は、家基として葬られた。

定之助が他界した直後、家基は密かに、城を出て田沼邸へ遷った。

「これから、どうなさるのでございますか? 

世間では、大納言様は、身罷られた事になっているというのに目の前におられる。

誰が信じましょうか? 」
 
 田沼邸に居る間、家基の付き添いを任された意次の嫡子、意知は、

家基を何日も、ほったらかしにした意次を責めた。

「何とかなる。いや、何とかせねばならぬ」
 
 意次が、自らに言い聞かせるかのように言った。

「父上に全てをお話しする他なかろう」
 
 家基が悲痛な表情で告げた。

「大納言様、早まってはなりませぬ」
 
 意次があわてて、引き留めた。

「わしが、父上に、全てを打ち明けたら、

そちが、窮地に陥る故、止めるのか? 」
 
 家基が、意次に詰め寄った。

「何も、己の保身だけを考えてお引き止めしているのではござらぬ。

大納言様が、全てを明らかとなさったら、

関わった者は無事では済みません」
 
 意次が神妙な面持ちで言った。

「火札と藁人形を吹上庭へ投げ込んだ罪人は捕えたのか? 」
 
 家基は、犯人が捕まれば説明がつくと意気込んだ。

「まことに申し上げにくいのですが、

御用部屋に隠しておいた火札と藁人形が消えたばかりか、

捜査を任せた家来も姿を消してしまい捜査できなくなりました」
 
 意次がその場に土下座した。

「何て事じゃ。証が無くなったのでは、

替え玉を用意した事の説明がつかぬではないか」
 
 家基が言った。

「定之助の死は無駄ではござらん。

あの者は、戦国の世であれば、

主君の為に、命を落とした名誉な死を遂げたという事になります」
 
 意知が言った。

「公方様には、それがしの口から、折りをみてお話し致します。

故に、それまで、耐えてくだされ」
 
 意次が、家基をなだめた。

「そちの思いは変わらぬというわけじゃな」
 
 家基が力なく笑った。

「大納言様。中野の屋敷はそのままにしております。

それに、定之助は、旅に出ていることになっています。

ひとまず、定之助として戻ってくだされ」

 意次は、定之助が生前、1人で住んでいた屋敷の鍵を家基に手渡した。

 それから数日後、家基は、定之助として、新しい生活をはじめることとなった。

一方、意次は、家基に代わる新たな将軍世子の選定役を拝命した。

既に、御三卿の一橋家当主、治済の嫡子、豊千代がなっていたことから、

豊千代が、将軍世子になることに異議を唱える者は誰もいなかった。

 意次は、治済と協議して家基の後継者筆頭だった

御三卿の田安家の四男、定信を陸奥白河藩の松平家へ養子に出し、

候補から外していたことは正解だったと思った。

 選定が終わり、一段落したある日の夜。

意次は、一橋邸で開かれた酒宴に招かれた。

「伯父上。あの賢丸君をいかなる手法で説き伏せたか、

ぜひに伺いたく存じます」
 
 同席していた意次の甥、意致が悪酔いして、意次に絡んで来た。

「ちと、飲み過ぎではござらんか? 」
 
 意次が顔を背けた。

「なあに容易いことじゃよ。この者は、御内意を賢丸君に伝えただけじゃ」
 
 治済が、意次の方を見ながら言った。

「御内意とはいかに? 」
 
 意致は、治済の向かい側に移動すると訊ねた。

「わしは、公方様が、賢丸君を養子に出せと

下知申されたと聞き及んでおる」
 
 治済が似非笑いして答えた。

「それはまことでござるか? 」
 
 意致が目を丸くした。

「ああ、殿の申す通りじゃ」
 
 意次が決り悪そうに言った。

「何か問題でもあったのですか? 」
 
 意致がしつこく追及した。

「さぁな。何が、問題なのか、わしとて知りたいわぃ」
 
 治済はあくまでも白を切った。

「賢丸君は、さぞかし、それがしのことを恨んでいるに違いない」
 
 意次が考え込んだ。

「賢丸君は、父上を恨んではおられませぬ。

白河藩からは、毎年、盆暮れの挨拶に贈物が届きます。

恨んでいる者へ、盆暮れの挨拶を欠かさず行うわけがござらん」
 
 意次の隣に座っていた意知が穏やかに告げた。

「御三卿の出である者が、徳川の家来に取り入るとはのう。

賢丸君には、失望致した」
 
 治済が眉間にしわを寄せた。

 意次はふと、あの日の出来事を思い出した。

今から5年前の話だ。意次は、家治から

定信と陸奥白河藩主の松平定邦との養子縁組を整えるよう命令を受けて、

定信を説得するために初めて田安邸を訪れた。

 その後、田安家当主が死去したため明き屋敷となったが、

定信が陸奥へ遷るまで生活していた生家だ。

「まことに、公方様が、斯様なことを仰せになったのですか? 」
 
 定信が冷静に訊ねた。

「左様にござる」
 
 意次が神妙な面持ちで答えた。

「その理由を聞かせてくれぬか? 」
 
 定信は、予想した通り、すぐには納得しなかった。

 意次は、田安邸に着くまで、頭の中でどうやって、

納得させようか考えあぐねていたが、

定信の落胆ぶりを見るに忍びがたく用意していた説明を言おうか迷った。

「賢丸様。貴殿にはぜひとも、

入閣して幕政に携わって頂きたく存じ奉ります」
 
 意次は、思い余って本音を口走った。

「譜代が入閣できぬことは、

将軍家の舎人ともあられる者が知らぬはずがござらん。

それとも、我をからかっておられるか? 」
 
 定信が耳まで赤くして声を荒げた。

「今すぐは無理でござるが、

賢丸様が入閣なさりたいとお望みならば、

それがしが法を変えて進ぜましょう」
 
 意次がきっぱりと告げた。

「わざわざ、法を変える必要などなかろう。

将軍になれば、入閣せずとも政を行える」
 
 定信が失笑した。

「将軍親政を行わぬかぎり、

将軍が幕政を主導することなどありえぬ話にござる」
 
 意次が冷静に告げた。

「そうであったかのう」
 
 定信が力なく笑った。

「白河へ参りませ」
 
 意次が深々と頭を下げた。

「公方様の御下命には従うが、そちの事は信用できぬ」
 
 定信が皮肉った。

 意次は、あの時の定信の軽蔑の目が未だに忘れられなかった。

定信は、きっと、家治の命令を果たす為に、

適当な事を言ったのだと思っている事だろう。

しかし、定信は、政治家向きだというのは意次の本懐だった。

 酒宴は、真夜中まで続いたが、

意次は、何杯飲んでも酔いが回らなかった。

腹踊りを披露する酔っ払いを眺めながら、

頭では、定信のことを考えていた。

 天明元年、5月。10代将軍徳川家治の嫡子、家基の急遽により、

次期将軍と定められた一橋徳川家の嫡男、豊千代が、

その生母、於富とその許嫁の茂姫と共に、一橋邸から、江戸城西丸に入った。

 一橋徳川家は、田安徳川家と共に、

尾張、紀伊、水戸の「御三家」による将軍位相続争いを防ぐ為、

八代将軍吉宗の時代に、創設された。

更に、九代将軍家重の時代に、清水家が創設されて、

【御三卿】と総称された。御三卿は、御三家のように、

城持ちではなく江戸城門内に屋敷を拝領していた。

 御三卿の内、田安徳川家と清水徳川家の2家は、

当主不在の明屋敷の時期が長く続いており、

当主の嫡子が、次期将軍に決まった一橋家の権勢はうなぎ登りであった。

豊千代が、家基の後継者筆頭にあった田安家の四男、定信を差し置き、

家基の死後、次期将軍となれたのは、

野心家の父、治済が、将軍の側近中の側近で、

今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢を誇る老中の田沼意次が、

密議を凝らして、定信を陸奥白河藩主の松平定邦の養子に出す事に

成功したおかげであると、心無い噂が流れたが、

2人は否定も肯定もしないばかりか、気にしている素振りを見せなかった。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み