第18話 水戸の若殿

文字数 1,708文字

老中首座の松平康福を追っ払ったとあって、

もめ事になると思いきや、鳥居が高齢の上、

家重の代から仕えている事もあり、

さすがに、康福も、何も言えなかったらしい。

噂では、家治が、家重の逝去を機に、

幕閣から遠ざかっていた鳥居を呼び戻し、

老中職に据えたのは田沼を牽制する目的があったという。

「鳥居殿は、いったい、何から、

公方様を守ろうとなさっておられるのですか? 」
 
 定之助は、家斉の顔をのぞき込むと訊ねた。

「何かは知らんが、今では、爺は、

公方様を御守りする明神などといわれて

奥女中らから崇められておる」
 
 家斉は、大きく伸びをして言った。

 老中の鳥居は、家斉を特別扱いしない無二の存在だ。

何だかんだと言い訳にして見舞う日を引き延ばして来たが、

家治公の病の深刻さが増している事を考えると、

避けて通る事は出来なかった。

「主殿頭が、家基君の時と同様、

公方様を暗殺するのではないかという風聞が城内に広まる中、

主殿頭は、気にも留めていない様子で政務に励んでおられます。

何故、平気でいられるのでござろうか? 」

  定之助がしかめ面で言った。

「それよりも、奥向から、絶えず聞こえる念仏の方が問題じゃ。

こう、朝から晩まで、念仏を聞かされては

気が散って、学問に身が入らぬ。どうにかしろ」

  家斉は、奥女中たちに人気がある定之助ならば何とかすると期待した。

「奥女中らは、何も悪気があって念仏を唱えておるわけではございませぬ。

大目にみてくだされ」
 
 定之助は、何とかする気はない様で奥女中たちをかばった。

「暇つぶしに、双六でもやるか? 」
 
 家斉は、近習たちを集めると双六を持ち出した。

「大納言様。客人がお見えでござる」
 
 木村が、障子に映る人影を見つけて言った。

「あの姿は、鶴千代に違いない。開けてやるが良い」
 
 家斉は、木村に障子を開ける様に命じた。

「やはり、うぬであったか」
 
 家斉は、【宇治之間】に入って来た若侍を見るなりつぶやいた。

「こちらは? 」
 
 木村は、初めて見る品の良い若侍に警戒を見せた。

「水戸候の嫡子、鶴千代じゃ」
 
 家斉は、鶴千代を傍に座らせると自慢気に紹介した。

「その方は、何奴である? 」
 
 鶴千代は、定之助をマジマジと見つめた。

定之助はあわててうつむいた。

「鶴千代君。こやつは、

わしの話し相手を務めさせておる中野定之助じゃ」
 
 家斉がいたずらっぽく言った。

「その方、前に、どこかで、わしと会ったことはないか? 」
 
 鶴千代が、定之助の顔をのぞき込むと訊ねた。

「人違いではござらんか? 

それがしは、貴方様とは初見でござる」

  定之助が苦笑いしてはぐらかした。

「双六をしておったところじゃ。そちも仲間に入るが良い」
 
 家斉が、鶴千代に将棋の駒を手渡した。

「これは、何でござるか? 」
 
 鶴千代が、将棋の駒を家斉に見せると訊ねた。

「見ての通り、将棋の駒じゃ。コマ代わりに使っておる」
 
 家斉が、サイコロをふるいながら答えた。

「竜とは、大納言様も考えましたな。

水戸徳川家の嫡子は、代々、中納言に任じられる。

中納言は、唐名で黄門。黄門の異名は、竜作の官でござるな」
 
 木村が感心した気に言った。

「双六なんぞ童子の遊びじゃ。

大納言様。此度は、下屋敷へお招きしたいが、よろしゅうござるか? 」
 
 鶴千代は、将棋の駒を放り出すと、家斉を熱心に誘って来た。

「いざ、参らん」
 
 家斉は乗る気だった。

「大納言様。水戸徳川家の下屋敷へ御出でになるのは、

如何なものかと存じます」

  木村があわてて、家斉を廊下の隅に連れ出すと苦言を呈した。

「何故、斯様な事を申す? 」
 
 家斉が、木村に詰め寄った。

「水戸藩では、彰考館総裁の立原翠軒が中心となり、

光圀公がはじめた大日本史の修事事業が復興したと聞きます。

吉宗公の時代、大日本史は、北朝政党論を唱える現世の

皇室に反する南朝を正統化するものとして、

朝廷献上が実現しなかった。

鶴千代君と近しい大納言様にお頼みすれば、

公方様に、口添え下さると考えておられるかもしれませぬ」
 
 木村が、家斉に耳打ちした。

「水戸藩は、財政難で苦しんでいると聞く。

それどころではあるまい」
 
 家斉は、木村の話を鼻であしらった。


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