第52話 京

文字数 2,002文字

「いや、まだ、おまえには、働いてもらわねばならぬ。

時が来たら連絡する。怪しまれぬよう戻られよ」
 
 高丘は、冷たく言い放つと、お伊曰を部屋の外に追い出して、

きっちりと障子を閉めた。

 お伊曰は思わず身震いした。死ぬまで買い殺されるのだ。

高丘は、恐ろしい人だと改めて思った。

 家斉の正室、御台所の茂姫は、天明7年、11月15日に、

公家の近衛経熙の養女となるため、寧姫と改め、

近衛家の娘として、家斉に嫁ぐ際、近衛ただ子と改めた。

岳父の重豪は、家督を長男に譲り、

隠居しながらもなお実権を握り続けていた。

翌年の1月30日。京都において大火事が発生した。

鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火し、

強風に煽られて、瞬く間に、南は五条通にまで達し、

さらには、火の粉が、鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。

その日の夕方には、相次いで、二条城本丸・洛中北部の御所が炎上した。

発生から二日後の2月2日早朝。ようやく、鎮火するが、

この火災で、東は河原町・木屋町・大和大路まで、

北は、上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、

西は、智恵光院通から、大宮通・千本通まで。

南は、東本願寺から、西本願寺・六条通まで達し、

御所や二条城の他、仙洞御所から、

京都所司代屋敷・東西両の奉行所。

摂関家の邸宅に至るまでもが焼失した。

幕府の調査によると、京都市中の1,967町の内、

焼失した町は1,424、焼失家屋は3万6,797、

焼失世帯6万5,340、焼失寺院201、

焼失神社37、死者150。死者は1800人に上った。

家斉はこの事態を重く見て、ただちに、幕府の代表として、

定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議させた。

光格天皇は、家斉の計らいに感謝する一方、

極秘に、火事発生直後に完成した【大内裏図考證】に基づいた

古式に則った御所が再建の申し入れを行った。

家斉は、鶴千代から、水戸徳川家に届いた

鷹司輔平の書状を見せて火事の被害状況をつぶさに報告し

御所の再建を説得した。ついに、家斉も重い腰を上げた。

定信を御座之間に呼び出すと、御所の再建に着手する旨を命じた。

しかし、定信は、財政難と天明の大飢饉における

民の苦しみを理由にあげて、かつてのような壮麗な御所は、

建てられないと真っ向から反対した。

実は、定信に話をつけた時にはすでに、

家斉が伝奏を介して、天皇の申し入れを認めており、

定信には、事後報告をした事が発覚した。

これは、家斉のささやかな抵抗だったが、

憤慨した定信は、京都所司代や京都町奉行に対して、

朝廷の新規の要求には応じてはならないとの沙汰を出した。

この一件で、朝廷や光格天皇の動向が、注目される事となった。

定信は、御休息之間で目にした床の間の掛け軸が妙に気になり、

家斉の留守中、御用絵師の狩野惟信を呼びその掛け軸を見せた。

「清水寺能の様子を描いた絵にございます。これが何か? 」
 
 狩野は、作者不明の掛け軸を

自分に見せた定信の本意を押しはだかった。

「確か、そちは、御所関係の絵事を多く手掛けておったな? 

絵に描かれている人物の中に見覚えのある者はおらぬか? 」
 
 定信が演者を指差して訊ねた。

 狩野は、それに対して法華経を読誦する

東国方の僧として思いつくのは天台宗の僧侶。

東国方の僧の姿をしている演者は俊宮に似ています。

俊宮は天台座主です。

坂上田村麿の姿をしている演者の着物の家紋と

清水寺門前の姿をしておる演者の

着物の家紋にも見覚えがあります。

坂上田村麿の方は、閑院宮家の家紋の閑院菊。

この演者は、恐らく、帝の父御にあたる

閑院宮典仁親王ではないかと思います。

清水寺門前の方は鷹司家の家紋の牡丹。

この演者は、先に述べた演者達の素性から考えますと、

帝の叔父にあたる関白の鷹司卿ではないかと思うと語った。

「他に何か、気づいた事はないのか? 」
 
 定信は、狩野に詰め寄ると訊ねた。

「能の舞台として描かれている清水寺は、

花見や紅葉の名所と世に聞こえた寺でございます。

しかれども、本堂の周りには、

桜の木ではなく竹林が描かれております。

この寺は、清水寺ではなく、

別の寺という事も考えられませんか? 」
 
 狩野が及び腰で言った。

「清水寺本堂と同じ舞台造りの寺は、

他に見た事も聞いた事もない。

この絵を描いた絵師が、何か伝えようとして、

あるはずのない竹林を描いたとは考えられないか? 」
 
 定信は、何だかの糸口を見つけようと必死だった。

 狩野は、掛け軸を眺めながら、演者各々が、

宮家と公家の家紋のついた着物を着ている事から、

背景にも、何か、意味があるに違いありません。

竹林の他に、雀が気になります。

雀は、新年の季語だが、竹は、夏の季語。

これが、俳句だとすれば、

あり得ない組み合わせとなりますと解説した。

定信は熱心に耳を傾けた。

「越中殿は、竹の園生という言葉を聞いた事がおありですか? 」
 
 狩野が上目遣いで訊ねた。

「何じゃ、それは? 」
 
 定信が首を傾げた。
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