第55話 父たち

文字数 2,318文字

通常ならば、天皇の父は上皇待遇を受ける。

しかし、光格天皇の父の閑院宮典仁親王は、

皇位に就いていないため上皇になれない。

せめて、尊号を贈り、今よりも良い待遇にして差し上げたいという

天皇の気持ちが理解出来たのは、家斉の父、治済もまた、

将軍の父でありながら御三卿の待遇しか受けられないからだ。

家斉は、光格天皇の親孝行をしたいという気持ちに刺激を受け、

この機会に、治済に、

【大御所】の尊号を贈る事を主張しようと考えた。

家斉は、急ぎ、城に戻ると、足早に、御用部屋へ向かった。

家斉が、【御用部屋】の前までたどり着いた時、

ちょうど、定信が、【御用部屋】へ戻って来た。

「公方様。御用部屋に何用でござるか? 」
 
 定信は、【御用部屋】へ入ろうとした家斉を呼び止めた。

「何故、尊号の件を、余に報告しなかった? 」
 
 家斉は、定信を問いただした。

「それを何方で、何方から、お聞きになりましたか? 」
 
 定信が仏頂面で聞き返した。

「一橋邸において民部卿から伺った」

 家斉が決り悪そうに答えた。

「さようでござったか」
 
 定信は淡々と受け流した。

「余に話しても、無駄じゃと思うたか? 」
 
 家斉は定信をにらみつけた。

「ここでは、論じていては、人目につきます。

ひとまず、場を変えませんか? 

我も、公方様に伺いたき儀がござる」
 
 定信は、家斉を御座之間へ誘導した。


 2人が、御座之間の前まで来ると、

土圭之間の前にいた円成坊が、驚いた表情で2人を出迎えた。

「人払いを」
 
 定信は、家斉の後から【御座之間】へ入る際、円成坊に命じた。

円成坊は、険しい表情で、

上座に着座した家斉を心配そうに見ながら杉戸を閉めた。

「帝が、父御に、尊号を贈られるおつもりならば、

余も、民部卿に尊号を与えようかと思う」
 
 家斉は強気の態度を示した。

「皇位に就いておらぬ者に、尊号を贈る事は先例がござらぬ。

将軍に就いておらぬ者も同様でござる」
 
 定信は厳しい口調で拒んだ。

「後高倉院や後崇光院という皇位に就いていない者が

皇号を贈られた先例がある。知らぬとは言わせないぞ」
 
 家斉が主張した。

「それは、承久の乱や正平の一統という

非常事態が生んだ産物であって、

太平の世に挙げる先例ではござらん」 

  定信は、ひるむ事なく反論した。

「そちは、何故、いつも、そうなのじゃ? 

歩み寄る事は出来ぬのか? 」
 
 家斉は、戦場に向かう武将のような

松平定信に僧侶の様な気持ちで説教を試みた。

「公方様こそ、帝に味方なさるのは、

尊王攘夷の思想をお持ちだからでござるか? 」
 
 定信は、家斉の挑発に乗り言わなくても良い事を口走った。

「余が、勤王家な訳がなかろう」
 
 家斉は一蹴した。

「公方様が、勤王家にお味方なさっているとする証は、

勤皇家とされる水戸徳川家嫡子の鶴千代君と

近しい間柄だという事と

あの掛け軸を大切になされている事でござる」
 
 定信は、床の間にかけられていた掛け軸を指差して言い放った。

 家斉は思わず、後ろをふり返り掛け軸を凝視した。

定信が何を見て、勤王家だと言うのかわからなかった。

「これが、何だと申す? たかが、掛け軸ではないか? 」
 
 家斉は、掛け軸をはぎ取ると定信の前に突き出した。

 定信は、この掛け軸の絵は、

閑院宮家を出白とする光格天皇が即位成された事により、

中御門家の皇統が途絶えた事を示します。

一見、清水寺の本堂において、

清水寺能を演じている者たちを描いている絵でありますが、

清水寺の周りには、桜の木ではなく竹林が描かれています。

空には雀の群れが飛んでいます。

 竹林に雀は、中御門家の家紋でござる。

日は、天照大神の皇子。すなわち、帝を示し、

日が隠れる事は帝の死を示します。

演者たちの衣には各自、閑院宮家や鷹司家の家紋が入っています。

それに、東国方の僧の姿をしておる演者ですが俊宮に似ています。

法華経を読誦する東国方の僧として思いつくのは、天台宗の僧侶だ。

俊宮は、天台座主なので当てはまります。

皇族や公家を示すモノが多く描かれている掛け軸を

大事になさっている事こそ、勤王家の証だと主張した。

家斉は、定信の主張に驚き言葉を失った。

生前、意次がこの掛け軸を見た時、

威圧感を覚えると発言した事を思い出した。

この絵は、光格天皇の3度にわたる申し入れと

同じような効力を持つのかもしれない。

家治は、何故、この絵を自分に残されたのか改めて考えた。

「この絵に、斯様な意味が込められているとは知らなかった」
 
 家斉は掛け軸を見つめた。

「将軍が勤王家だとの風聞が広まったりしたら、大変な事になります。

お捨てになった方が、よろしいかと存じます」
 
 定信が厳しい口調で苦言を呈した。

「斯様な事は出来ぬ。これは、やんごとなき御仁の遺品なのじゃ。

罰当たりな事をしてみろ、たちまち、呪われるに違いない」

  家斉は思わず、身震いした。

「公方様。そのやんごとなき御仁とは、何方なのでござるか? 」
 
 定信は、最初から、家斉を勤王家と疑っていたわけではなかった。

 若くて無知な将軍は、勤王家に洗脳されつつあると

危機を募らせていたのだ。

「他言無用との遺言がある以上、名を明かす事は出来ぬ」
 
 家斉は、家治の遺言を頑なに守ろうとした。

「とにかく、ここでは、人目につきます故、他にお移しくだされ」
 
 定信は、掛け軸を家斉に手渡すと御休息之間を出て行った。

「公方様。その掛け軸の絵は、

もしや、家治公の遺品ではござらんか? 」
 
 小姓の石谷清豊が、家斉に歩み寄ると訊ねた。

石谷は、田沼意誠の五男で、田沼意次の甥だが、

石谷清定の娘を妻として、石谷清定の跡を継いでいた。

養父の清定は天明六年まで、本丸に仕えていたが、

種姫の用人となり嫁ぎ先に随伴した。
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