第45話 虎と会う

文字数 2,069文字

「書状は、何処で手に入れたのじゃ? よもや、盗んだのではあるまい? 」
 
 於富が身を乗り出すと訊ねた。

「机の上に置いてありました。誤って置かれたのかと思い、

大崎に返そうかと考えたのですが、念の為、中を確かめました。

あの大崎がいともたやすく、寝返るなど信じられませぬ。

民部卿は、如何にして、大崎を味方に

引き込んだのでございましょうか? 」
 
 高丘は、於富が、顔を曇らせたのを見てまずい事を言ったと気づいた。

「公方様が、横田殿の罷免を

決断なされたのには大崎局の進言が大きい。

大崎局に対する公方様の信頼は並大抵のものではない。

何せ、物心つく前から傍におるのじゃ。

なれど、これが、まかり通れば、向後、

大崎局の権威は、いっそう、高まるに違いない。

さすれば、我らの地位が揺らぐ事になる。

何か、大崎を牽制する良い手立てはないものかのう」
 
 於富は考え込んだ。

「敵に塩を送ると言うのは、如何でございましょう? 」
 
 高丘が上目遣いで言った。

「越中殿に、取り入るというのは、ちと、気が引ける」
 
 於富は尻込みした。

「大奥の御年寄が、表の儀に対し、口を挟んでいる事を、

越中殿の耳に入る様に、風聞を広めるのです。

大崎局は、気位が高いところがあります。

無礼な態度を取られたら黙っている事は出来ないはず。

2人の間は、険悪になる事間違いありませぬ」
 
 高丘がほくそ笑んだ。

「それは良い考えじゃ。

ただちに、手の者へ、風聞を広めるように申し伝えよ」
 
 於富も、高丘の考えに乗った。

障子に耳をつけて、2人の会話を盗み聞きしていた

お伊曰は思わず声を上げそうになった。

そして、於知保を大崎の部屋の近くで

見かけた事をふと思い出した。

高丘が、大崎の書状を持って現れたと言う事は、

於知保が、大崎の部屋から書状を盗んで、

高丘が、それを見つけるように仕向けたという事になる。

於知保は、転んでもただでは起き上がらない。

暇つぶしが出来たと喜んでいるに違いない。

大崎が、大奥の敵ともする徳川治済と密議を凝らし、

田沼派の重鎮、御側御取次の横田準松の罷免を家斉に

助言する策略をめぐらしたという噂はたちまち、

大奥の奥女中たちの間に広まった。

その噂は、広敷役人の知る所となり、

高丘の目論見通り、松平定信の耳にも入った。

「大奥の御年寄の分際で、幕閣の人事に口を挟むとは言語道断。

これを見逃せば、大奥の改革に支障をきたす事になる」
 
 定信は、大崎の振る舞いに警戒を強めた。

天明7年、6月19日。定信は、天明の大飢饉での功績が認められ、

御三家の支持を受けて老中首座に就任した。

定信の肩には、幕府に対する民衆の信頼回復と

幕府の財政の立て直しがかかっていた。

意次が、出来なかった大奥の経費削減を成功させる事で

名声を上げられないかと考えた定信は、切り札を使う事にした。

定信は、方々から届いた御祝儀を拒み、贈収賄の払拭を試みた。

そのため、就任の際にかかった費用が赤字となった。

一方、大奥では、於富を中心に今後の対策が話し合われた。

大崎は、治済との関係が、既に知られている事は夢にも思わず、

何食わぬ顔で、話し合いの場に出席して他の御年寄と意見を交わした。

定信は、翌8年には、将軍補佐となり奥向兼帯となった。

定信はついに、大奥へ足を踏み入れた。

大奥女中たちは戦々恐々としていた。

定信は、御坊主の案内で、御殿向と長局をくまなく見学した。

その昔、田安邸が、火事に遭い、大奥に一時避難をした事があった。

その時、受けた格別のおもてなしは今も忘れていない。

大奥の御年寄をはじめとする奥女中たちは、優しく親切だった。

その反面、豪華絢爛な衣装や無駄とも思える独自の慣習に戸惑った。

定信は、於富にはじまり大奥御年寄たちまであいさつを済ませると、

将軍付老女の大崎の元へ勇み足で向かった。

大崎へのあいさつを最後にしたのは印籠を渡すためでもあった。

「これからは、御同役故、奥の儀は、申し合わせてお勤めいたしましょう」
 
 一通り、形式的なあいさつを済ませた後、

大崎は、満面の笑みを浮かべて告げた定信は、

大崎に、再会した時、一瞬、別人かと思った。

遠慮気に近づき、上目遣いで、

顔色を窺いながら、ためらいがちに話をしたおさきはいなかった。

「大奥の年寄の分際で、老中と同役とは、何たる事か。頭が高かろう」
 
 定信は厳しい表情で一喝した。

大崎は、思いもしなかった展開に目を丸くした。

「慣例を申したに過ぎませぬ。

お気に召さず、御立腹とあれば罰してくだされ」
 
 大崎は、怒りを抑えながらも低姿勢に出た。

「大崎局。そなたに、申し渡す儀がござる」
 
 定信は慎重に話を切り出した。

「何で、ございましょうか? 」

  大崎が上目遣いで訊ねた。

「そなたが大奥年寄の分際で、

幕閣の人事に口を挟んだというのは、まことでござるか? 」
 
 定信が、大崎を見据えた。

「私は、将軍付老女でございます。

公方様から、意見を求められればお答えしなければなりませぬ。

それを幕閣の人事に口を挟んだなど申されますのは、心外です」
 
 大崎は、他の大奥御年寄と

一緒にされては困ると権威を主張した。
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