第31話  嫁えらび

文字数 2,454文字

「大崎、そなたに、申し伝える事がござる」
 
 家斉が改まって告げた。

「私も、上様にお話がございます」
 
 大崎が咳払いして言った。

「奥女中に、武芸の稽古をつけておる別式が、

奥向に出入りしておろう? 

あの者をそなたの部屋子に抱え申せ」
 
 家斉が興奮気味に言った。

「もしや、耀をお気に召したのですか? 

恐れながら、あの者は既に、種姫付の御中臈と決まっております」

 大崎が決り悪そうに告げた。

「そなたの力で、何とかならぬか? 

あのまっすぐで、大きな瞳が良い。

器量が良いだけでなく、知性を感じる。

何より、勇ましい女子だと言うのが気に入った」
 
 家斉がうっとりした表情で言った。

「耀を側室としてお考えですか? 」
 
 大崎が眉をひそめた。

「いかにも」
 
 家斉は顔を赤らめた。

「側室をお選びになる前に、御内証を決めなければなりませぬ」
 
 大崎は、家斉の御内証に相応しい御中臈候補に目星をつけたという。

「手ほどきを受けずとも何とかなる」
 
 家斉は逃げ腰で言った。

「何事も初めが肝心だと申します。初の御褥が、

向後を左右すると申しても過言ではありませぬ。

御年寄衆の評議にて、上様の御内証に相応しい者を何人か選び、

絵師を呼んで、候補者らの人相書を作らせました故、御覧に入れましょう」

  大崎は、文箱から、絵を数枚取り出すと家斉の前に並べた。

「わしには、茂姫という許嫁がおる。他の女人なんぞ相手に出来るか」
 
 家斉は顔を背けた。

「御内証選びも、一橋家の血筋を将軍家に遺す為には、大切な儀でございます」

  大崎は、候補者の人相書の1枚を家斉の前に並べた。

 家斉は、おそるおそる、その中の1枚を手に取った。

その絵に描かれた娘は色白のおたふく顔だった。

「こやつは、ちと、肥え過ぎじゃ。わしを愚弄しておるのか? 」
 
 家斉はその1枚をはねつけた。

「おまるは、上様より八歳年上ですが、

美形で気立ての良い健やかな女人でございます。

それに、1度、御旗本に嫁いだ事があり

男女の営みを知り得ております。

御内証に相応しいと存じます」
 
 大崎は、自信満々に主張した。

「何を言われても、気に入らぬ者は気に入らぬ」
 
 家斉は、大きく首を横にふった。

「しからば、他の候補者は、如何でございますか? 」
 
 大崎が身を乗り出して訊ねた。

「この者に決めた。器量良しじゃ」
 
 家斉は、はねつけた人相書の隣に並べられた

人相書を手に取ると大崎の顔の前につき出した。

「上様がお宇多をお選びになるとは、

高丘局のよみは見事にあたりましたな」
 
 大崎が感心した気に言った。

「この者は、高丘局の縁者か? 」
 
 家斉は嫌そうな顔で訊ねた。

「お宇多は、主殿頭の縁者だという事で、

高丘様がぜひにと推挙されたのでございます」
 
 大崎が小声で言った。

「田沼家の女子を勧めるとは、いかにも、田沼贔屓の高丘らしいのう」
 
 家斉が腕を組んで言った。姿形は好みだがその背後が問題だ。

「お宇多は、おやめになられた方がよろしいかと存じます」
 
 大崎が神妙な面持ちで告げた。

「何故じゃ? 」
 
 家斉が、大崎の顔を覗き込むと訊ねた。

「上臈御年寄の高丘様の推挙である故、除く事は出来ず、

候補者に挙げはしましたが、私は気が進ません」
 
 大崎が反対の意思を示した。

「相分かった。内証の件はそなたに委ねる」
 
 家斉は、大崎の勘を信じる事にした。

「おまかせくだされ」
 
 大崎は深々と頭を下げた。

家斉が本丸に戻ったのは、夕餉の支度が整った後の事だった。

家斉の姿が見えると定之助が駆け寄って来た。

「上様。お忘れとは言わせませんぞ。

奥向へ参られる時は、お伴しますと申し上げたではござらんか」
 
 定之助が障子を開けると言った。

「内々の話をしに参ったのじゃ」
 
 家斉はぶっきらぼうに言った。

「もしや、御内証の方が決まりましたか? 」
 
 定之助が目を輝かせて訊ねた。

「お宇多と申す娘が良かったが、

大崎が反対しておる故、別の者に決まるかもしれぬ」
 
 家斉は素っ気なく答えた。

「お宇多? 何処かで聞いた名でござる」
 
 定之助は考え込んだ。

「ここだけの話だが、お宇多は田沼家の縁者だそうじゃ」
 
 家斉が、定之助に耳打ちした。

「思い出しました。確か、主殿頭の次女の名が、お宇多でござる。

若年寄の井伊直朗に嫁いだと聞いていましたが、

何故、御内証の候補者になっているのですか? 」
 
 定之助が興奮気味に訊ねた。

「左様な事わしが知るか。

それより、今、井伊直朗に嫁いでいたと申したか? 」
 
 家斉が口をとがらせた。

「左様でござる。御内証の候補になったと言う事は、

離縁したという事になりますな。

井伊直朗様と大老の井伊直幸様は共に、田沼派でござる。

田沼派と縁を切ってまで、娘を上様の御内証にしたかったのでしょうか? 」
 
 定之助は、家斉に顔を近づけると言った。

「政略結婚には、色々あると、於富様から聞いた事がある。

やはり、離縁した理由が気になる」
 
 家斉が腕を組んで言った。

「お任せくだされ。弟子に、田沼派の動きを探らせましょう」
 
 定之助が張り切って言った。

「おぬしに、弟子などおったか? 」
 
 家斉は横目で、定之助をにらんだ。

「上様が、御物茶師に召し抱えた熊蔵の事でござる。

熊蔵の方から、我の弟子にして欲しいと

願い出ました故、弟子にしてやりました。

実以て、奥坊主に空きがあり

上様の御寵愛を受けていると幕閣に働きかけたところ、

彼奴を奥坊主にさせる相成りましてござる。

これもすべて、上様のおかげ。熊蔵には、

上様の御為に身を粉にして働く様にと誓わせました。

何なりと、お申しつけくだされ」
 
 定之助が得意気に言った。

「さよか」

 家斉は、上様のおかげと聞いて気を良くした。

「恐れながら、熊蔵が、円成坊と名を改めたいと申し出ました。

上様の御許しがあれば、ただちに、改めさせたいと存じます」
 
 定之助が上目遣いで告げた。

「しからば、此度の一件を上手く務め上げたら改名を許す事に致す」
 
 家斉は条件を出した。

「仰せの通りに致します」
 
 定之助はニッと笑うと返答した。


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