第32話 罷免

文字数 2,282文字

家斉が予想した通り、遂に、治済が行動に出た。

御三家当主はそれぞれが、田沼意次主導の政策を厳しく批判した上で、

幕閣人事の刷新と意次を厳罰に処する旨を幕閣に申し入れたのであった。

 意次の失脚後もなお、田沼派の幕臣の松平康福が、

老中首座に就くなど幕閣の中枢には相変わらず、

田沼派の幕臣が君臨していた。幕政を強化するとの目的で

鳥居忠意と牧野貞長が、老中職に任ぜられた他、

治済は、御三家当主に働きかけると同時に、

田沼派の御側御用取次の横田準松を牽制する為、

同じく、御側御用取次の小笠原信喜を取り込んで、

一斉攻撃を仕掛けてきた。

一方、大奥では、意次を支持する勢力が残存しており、

幕府の財政が悪化する中、大奥を優遇した意次に対する

奥女中の信頼は厚く相変わらず人気があった。

大奥では、意次と近しい仲であった御年寄筆頭の高丘が中心となり、

意次の罷免撤回懇願書が幕閣に提出された。

ある日の昼下がり。於富が、御目通りを願い出ていると聞き、

家斉は、緊張した面持ちで於富と対面した。

「お召し上がれ」

  於富が、家斉に饅頭を勧めた。

「ありがたく、頂戴致す」
 
 家斉は、饅頭を1つてに取った。

「先日、大奥の奥女中らが、

主殿頭の罷免撤回懇願書を幕閣に提出しましたが、

民部卿が田沼派を一掃するため、幕閣に働きかけているフシがあり、

このままでは、主殿頭の罷免は免れないと危惧し、

大奥においても、策を練っておる次第でございます」
 
 於富が神妙な面持ちで告げた。

「何故、奥女中らは、意次の罷免撤回を望んでおるのでござるか? 」
 
 家斉は素朴な疑問を投げかけた。

「これまで、主殿頭は、奥向の儀を優遇して下さった。

主殿頭には、返し切れぬ恩があると、

御年寄をはじめ、多くの者達が申しております。

その恩を忘れて、身の保全を図ろうとする者は、大奥にはおりませぬ。

私も、主殿頭の罷免撤回を切に願っております」
 
 於富の意思は強かった。

「わしは、中立を守らねばならぬ」
 
 家斉がきっぱりと告げた。

「それでも、意見に、耳をお貸し下さった。感謝致します」
 
 於富が頭を下げた。

「政務が残っています故、これにて、御免仕る」
 
 家斉は【御休息之間】へ舞い戻った。

「上様。ちと、お話がござる」
 
 家斉が御休息之間下段にて政務を行っていると、

木村が家斉に耳打ちした。

「何じゃ? 」
 
 家斉は小声で訊ねた。

「今朝、御坊主が参りまして、今宵はどうかと訊ねられました故、

お渡りになると、お答えしましたが問題ござらぬか? 」
 
 木村が上目遣いで言った。

「相分かった」

  家斉は、心ここにあらずの返事をした。

その日の午後。家斉が、奥泊まりすると聞きつけた

定之助がニヤニヤしながら近づいて来た。

「上様。今宵、奥泊まりなさると聞きましたぞ」
 
 定之助が、家斉に耳打ちした。

「将軍の務めとは云え、許嫁の茂姫以外の知らぬ

女子を抱くのは、どうも気が進まぬ」

  家斉が決り悪そうに言った。

「お宇多の件ですが、井伊直朗様とお宇多の離縁には、

御三卿が関与しておるようでござる」
 
 定之助が小声で言った。

「御三卿といえば、田安、一橋、清水の三家じゃ。

田安家は、当主不在。清水家は、病床に伏しておる。

残るは、一橋しかおらぬではないか」
 
 家斉は、まわりくどい言い回しにいらだった。

 家斉が、西丸御殿に遷ると共に、

一橋家家老から、小姓組番頭格の西丸御側取次見習いとなった

田沼意致の出世は、意次と治済との関係が

良好であった時に実現した事であり、

治済が、意次を罷免に追い込んだ今となっては、

意致の出世は止まるどころか降格も避けられない。

 家斉は、治済が、井伊家に、将軍の父で、御三卿の自分が

幕閣に働きかければ、人事はどうとでも変えられると迫り、

田沼家との縁を断ち切るよう迫ったのではないかと考えた。

「井伊家に限らず、主殿頭の子息や甥と養子縁組した

田沼派の幕臣らが、養子縁組を解消し、

田沼家と縁を切る事は必至でござろう」
 
 定之助が神妙な面持ちで告げた。

「贈収賄の風聞も、まんざら嘘ではなさそうじゃ」
 
 家斉は皮肉った。

「主殿頭が、身の保身を図る為、上様に、娘を献じたとなれば、

お宇多の名が、候補者に挙がった事も納得が行きます」

  定之助が、家斉の顔を覗き込むと訊ねた。

「大崎が反対しておる故、主殿頭の望み通りには事は運ばぬ。

よくぞ、調べてくれた。約束通り、熊蔵の改名を認める」
 
 家斉は、憮然とした表情で告げた。

 その夜、家斉は、脇差のみの着流しで、

定之助を従え、上の御錠口まで行くと、

奥向へ通ずる上御鈴廊下へ緊張した面持ちで足を踏み入れた。

次の瞬間、鳴り響いた御出ましを報せる鈴の音に驚き、

家斉は思わず足がすくんだ。

「お迎えにあがりました」
 
 上臈御年寄の高丘と表使のお八重が、

家斉を出迎えて御小座敷へ先導した。

「上様、緊張なさっておられますか? 」
 
 高丘が、茶碗にお茶を注ぐと訊ねた。

「大事ない」

 家斉は、強がってみせたが、茶にむせた事で緊張している事がばれた。

「何も恐れる事はございますまい」
 
 お八重は、家斉の背中をさすりながら言った。

その後、家斉は、高丘に促されて御内証が待つ寝所に入った。

寝所には、布団が4枚並べて敷いてあった。

「何故、布団が、四枚並んでおるのじゃ? 」
 
 家斉が、高丘に訊ねた。

「御内証の他に、添い寝の御中臈と

御坊主が控える慣習となっております」
 
 高丘は、言い終えると、家斉をその場に1人残して立ち去った。

寝間着姿の御内証は、家斉が近づくと、両手をついて頭を下げた。

「面を上げぃ」
 
 家斉は、御内証となった御中臈の傍に坐ると命じた。

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