第14話 須佐屋

文字数 2,980文字

「多紀元徳が、医学館の創立を幕府へ申し入れたと聞きました。

幕府の医学館が創立した暁には、是非とも、

我々、蘭方医学を学んだ医者も教官として登用して頂きたい」
 
 桂川が頭を下げた。

「して、多紀元徳とは何奴なのじゃ? 」
 
 家斉は興味津々で、意次に訊ねた。

「多紀は、奥医師でして、安永六年に、

広恵済急方と申す救急医療手引書を公方様に献上しました。

子息の元簡も医者となり、安永6年に、家治公に謁見しました」
 
 意次は穏やかに説明した。

「さよか」
 
 家斉が相槌を打った。

「それがしが、折をみて、公方様に言上します故、お任せあれ」

  意次が、家斉に頭を下げた。

「公方様に、これをお渡し頂きたい」
 
 桂川が風呂敷包を差し出した。

「これは、書物に違いない」
 
 家斉は、風呂敷の形と重さで中身を言い当てた。

「これは、そちが著したものか? 」
 
 意次は、【万国図説】と表紙に書いてある書物を手に取ると訊ねた。

「さようです」
 
 桂川が照れくさそうに答えた。

「なかなか、面白そうじゃないか」

 家斉が横からのぞくと言った。

「よろしければ、当店が、これまで刊行した

書物を何冊かお持ちになりますか? 

必ずや、お気に召していただけると存じます」
 
 須佐屋が愛想良く告げた。

「小難しい学問書ではなく、異国について書かれているものが良い」
 
 家斉が弾んだ声で告げた。

 須佐屋は、待っていましたとばかりに襖を開けた。

すると、隣の部屋に書物の山が現れた。

家斉は、書物の山に駆け寄ると、夢中で、読みたい書物を捜した。

「これは、お勧めでございます」
 
 須佐屋が、何にしようか迷って、なかなか、決められない家斉を見兼ねて、

煙草商の平秩東作が、松前や江差に滞在した時、

アイヌの風俗や蝦夷地の風土について

見聞した事を記した【東遊記】など数冊を手渡した。

「また、何か、良いものがあったら届けるが良い」
 
 家斉が上機嫌で言った。

「かしこまりました」
 
 須佐屋は、満面の笑みを浮かべながら返事をした。

「大納言様は、異国に関心をお持ちのようですな」
 
 意次がさり気なく、話を切り出した。

「父上が、松前藩主と親しくしておられる故、

蝦夷地を訪れるアイヌやシベリア、

赤蝦夷の人らの話を聞く内、興味を持ったのじゃ」
 
 意次の予想通り、家斉は、治済を通じて蝦夷地の情報を得ていた。

「実は、蝦夷地の開発計画が持ち上り、蝦夷地を調査するため、

幕府の探検隊が結成される運びと相成ったのですが、

松前藩主の松前道広が以前、赤蝦夷人の来航を報告せず、

独断で蝦夷地での交易を拒否した一件が問題となりまして、

計画が難航しておりまして‥‥ 」
 
 意次が困り顔で言った。

「父上に、松前藩との交渉をお願いすれば、

何とかしてくださるかもしれぬ」
 
 家斉は、意次に誘導されているとはつゆ知らず対案を出した。

「よしなにお頼申す。民部卿に御賛同頂ければ、

蝦夷地の開発計画は成功したのも同然でござる」
 
 意次がごり押しした。

「その方らは、わしを信じて計画を進めるが良い」
 
 家斉にはなぜか、根拠のない自信があった。

「成功した暁には、民部卿の名を後世に残すとお伝えくだされ」
 
 意次が勢い任せで言った。

 城に戻る途中、浅草に立ち寄った。

浅草寺周辺は、年中、人通りが多いため、

仲見世を歩くことは出来なかったが、遠巻きに、

賑やかな市中の様子を見ることが出来た。

浅草本願寺の横を通りかかった時だ。

家斉は、若い男女が楽しそうに集まる様子が気になり足を止めた。

「あれは、何の集まりじゃ? 」
 
 家斉が、意次に質問をした。

「あれは、御講小袖という寺の行事でござる。

若い門徒が、新調した着物を着て、報思講に参詣するのが、

門徒方のならわしで、男子は、肩衣を着用することになっております。

また、男女の出会いの場でもあり、

報思講で出会って夫婦となる者も多いと聞きます」
 
 意次が丁寧に説明した。

「夫婦になる者を選ぶとは面白そうじゃのう」
 
 家斉は、茂姫と結婚するのが当然だと躾られて来たが、

また、別の価値観に触れて新鮮な気がした。

「お急ぎくだされ。公方様が、大納言様の不在に気づかれるやもしれませぬ」
 
 意次が急にせかし出した。

 家治は、気が向くと、ふらりと、

家斉の様子を見に西丸御殿に足を運ぶことがある。

もし、家治が、姿を見せた時、家斉が【宇治之間】にいなかったら、

監督不行き届きだと近習たちが処罰される。それだけは避けたかった。

「奥女中らも、あれを見たら、大奥に戻りたくなくなるのではないか? 」
 
家斉は、後ろ髪引かれる思いでその場を立ち去り、

帰路に着くと、独り言のようにつぶやいた。

「確かに、代参と称して、馴染みの寺に通う者も少なくはありません。

中には、仏像を拝んでおる者もおります」
 
 意次は、家斉が、男女の出会いではなく、

寺に参詣する方を言ったのだと勘違いした。

「そちは、そう考えるか」
 
 家斉は、苦笑いした。

 意次の言葉通り、大奥では、寺の参詣だけでなく、読経や仏像が流行っていた。

御目見え以上の奥女中たちは、誰につくかで大奥での暮らしが大きく変わる。

その時の権勢を見定める事も大奥で暮らす極意だった。

 松島に代わり、御年寄筆頭の座に就いた高丘は、

最初、御台所の五十宮倫子様が降嫁した時、

京師から御伴して来た御中臈の1人であったが、

容姿が美しい上に才媛だった事から御中臈の中で頭角を現し、

明和8年、8月。御台所が、34歳の若さで急遽した後も

御年寄筆頭の次席として権威を振るった。

高丘局が御年寄筆頭の座に就いたのも、

早くから、将軍の側近や諸大名と積極的に交流を持ち、信頼を得た事にある。

 御部屋様として権勢を誇った於知保も、

高丘局の権威の高さには太刀打ちできなかった。

家基が存命だったころまで、高岳局は、於知保に敬意を払ったが、

家基が急逝すると、新たに世子となった家斉と共に、

西丸に遷った将軍生母の於富と家斉の婚約者の茂姫に敬意を払い、

於知保をないがしろにするようになった。

 一方、恵まれた境遇から、他の幕臣たちから

嫉妬や妬みを買い成り上がりと影口をたたかれた上、

大出世の裏には贈収賄ありと噂された意次は、

大奥の権力を頼りとしていた。

 意次と於富の父親、岩本正利が同期だった縁で、

於富は、意次の推薦で本丸の奥勤めをしていた時、

大奥を訪れた御三卿の一橋治済の目に止まり、

治済が、家治に於富を所望したため、於富は一橋家の御中臈となった。

そして、後に、治済の側室となった。

意次が、西丸に遷った於富と茂姫の元に、

まっさきに、挨拶に向かい御祝儀の品を送ったことは言うまでもない。

将軍生母や世子の婚約者と結んでおけば、田沼の立場は安泰となる。

 治済が、松前藩主の松前に粘り強い交渉を行った結果、

蝦夷地へ幕府の探検隊を派遣することが決定した。

事務方として、勘定奉行の松本秀持。

そして、勘定組頭の土山宗次郎などが。

普請方には、越後蒲原出身で、幕府役人の山口鉄五郎が、

幕府の探検隊には、幕府普請役兼探検家の最上徳内をはじめ、

青島俊蔵・大石逸平・庵原弥六などが参加する運びとなった。

 蝦夷地の開発と共に、長崎交易拡大のための

造船計画が水面下で進められていた。

天明2年、11月。幕府は、長崎の出島に滞在中の

オランダ商館長のイサーク・ティチングに対して、

バタビアから船大工と技師の派遣を要請した。


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