第26話 臨終

文字数 1,795文字

「気が済んだなら、ただちに、出て行かれよ」
 
 於知保は、キツイ口調で言い放った。

「これにて、御免仕る」

  酒井は、定之助を外へ促すと静かに障子を閉めた。

「公方様も於知保様もご無事の事ですし、

杉戸の件は、落着したという事に致しませぬか? 」
 
 定之助は、上目遣いで酒井に訊ねた。

「曲者が、忍び込んでいたらどうするのじゃ? さっさと、歩かぬか」
 
 酒井は、定之助の背中を前へ押し出した。

2人は慎重に上御鈴廊下を進んだ。

「夜分に、殿方が二人、御殿向にて、何をなさっておられますか? 」
 
 2人が、詰所の前まで来た時、女の鋭い声が聞こえた。

 定之助が、声が聞こえた方に燭台を向けると、

見慣れぬ奥女中が立っていた。

「わしは、小納戸奥之番の中野定之助と申す。

杉戸の件で、御錠口番に会うため、罷り出た次第でござる」
 
 定之助は緊張した面持ちで答えた。

「さようでございましたか。失礼しました。どうぞ、中へお入りくだされ」
 
 その奥女中は、詰所に、2人を引き入れた。

詰所には、奥女中が2人待機していた。

「お2人揃って、詰所へお越しとは、何事にございますか? 」
 
 御錠口番頭のお登勢が、2人に気づいて歩み寄った。

「実は、上御鈴廊下の杉戸の開いていたのを酒井殿が見つけまして、

わしは開けた放した覚えがない故、そなたらに聞きに参った次第」
 
 定之助が慎重に告げた。

「何か変わった事があれば、火之番が気づいて

報せが入るはずです。そうであろう? 」
 

 お登勢が、戸口に立つ奥女中に同意を求めた。

「私が、戸締りを確かめた時は、杉戸は閉まっていました」
 
 お伊曰は、神妙な面持ちで答えた。

「我々が、御殿向へ入った折、御殿向側から杉戸を閉めた。

そなたは、身共の後から来て確かめたのではないか? 」
 
 酒井が、お伊曰に聞き返した。

「何でしたら、もう1人おります故、聞いて参ります」
 
 お伊曰が冷静に答えた。

「我々も、お伴致す」
 
 酒井と定之助は、お伊日についてもう1人の火之番を捜した。

「何処にもおりません。もしや、何かあったのでしょうか? 」
 
 しばらくして、お伊曰が言った。

「行き違いになったのかもしれぬ」
 
 定之助が言いかけたその時だった。

中奥の方から女の悲鳴が聞こえた。

「ご無事でございますか? 」
 
 3人は急いで、中奥へ駆けつけた。

すると、【御休息之間】の障子が開いており、

於知保が障子の前に倒れているのが見えた。

「於知保様の腕から、血が出ております」
 
 お伊曰は、於知保に駆け寄ると於知保を抱き起こした。

その時、於知保の左腕の刺し傷に気づいた。

「公方様は、御無事でござるか? 」
 
 酒井は急いで、家治の枕元に坐ると家治の顔を手燭で照らした。

すると、青白い顔が浮かび上がった。

酒井は、家治の変わり果てた姿に思わずつばを飲み込んだ。

ほんの数日前は、人相が変わる程、

腫れ上がっていた頬は、削られたように痩せこけて、

目の周りは窪んだせいで眼球が引っ込んで見えた。

それは、まるで、生きる屍のような姿であった。

「酒井様。公方様の御様子に変わりはござらんか? 」
 
 背後から、定之助が、酒井に話しかけた。

「播磨守、おぬしは御匙を呼ばれよ。

お伊曰、そなたは於知保様を頼む」
 
 酒井は、2人に指示を出すと奥医師の到着を待った。

しばらくして、定之助と共に、

奥医師の大八木伝庵が【御休息之間】に現れた。

「於知保様。如何なされましたか? 」
 
 伝庵は、御休息之間に入るとすぐ、

お伊曰に抱き起された於知保に駆け寄った。

「私が、駆けつけた時には、すでにお倒れになっていました」
 
 お伊曰が青い顔で告げた。

「ひとまず、流血はおさまった。御次を呼び、許へお運びするのだ」
 
 伝庵は、止血を施した後、お伊日に指示を与えた。

「かしこまりました」
 
 お伊曰が一礼した。

「御臨終にございます」
 
 伝庵は、報せを聞いて集まった者たちの前で家治の死を宣言した。

「於知保の方が、お倒れになったというのはまことでござるか? 」
 
 家斉が、伝庵に訊ねた。

「左様にございます。しかるべき処置をした後、

傍にいた奥女中に、寝所へ運ぶよう申し伝えました」

 伝庵が答えた。 

「何故、於知保の方はお倒れになったのじゃ? 」
 
 家斉が、伝庵に慎重に訊ねた。

「於知保様の左腕に、刀傷がございました故、

恐らく、血を見て気を失われたのではないかと存じます」
 
 伝庵が、家斉に告げた。



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