第46話 鉄拳

文字数 2,857文字

「何を勘違いしておるか知れぬが、

公方様が、大奥の女中へ申し伝えるのは、単なるお話に過ぎぬ。

このような事がまかり通れば、他の者に示しがつかぬ。

向後、表向の儀に付き、大奥年寄であれ、

御台様や側室、御側衆であっても、

口を挟まぬよう厳重に取り締まる事と致す故、心しておくように」
 
 定信がきっぱりと告げた。

「貴殿は、何をもって、斯様な仕打ちをなさるのじゃ? 」
 
 大崎が、定信を非難した。

「公方様に、心得をお渡しする。

その上で、奥女中らには、改めて申し伝える。

そなたに、先に、申し伝えたのは、

そなたの行いが心得に反していたからじゃ。

そなたには、相当の処罰を受けてもらう事になる。

追って、報せる故、待つが良い」
 
 定信は要件だけ告げると、足早に立ち去った。

 大崎は、今、何が起こったのか理解出来なかった。

いったい、何を咎められているのかわからなかった。

大奥の御年寄が、幕閣の人事に口を挟む事は、今に始まった事ではない。

幕政の人事に口出しが出来るのは、

大奥御年寄の特権とも言える。

大奥は、政治に参画する事が出来るから、

正面切っては取り下げられる案件は、大奥の権力が頼りとされる。

もし、定信が、長年、誇った大奥の権力を封じ込めてしまったら

大奥を今まで支えてきた多額の賄賂が入らなくなる。

大奥の上級女中たちは、年間2千万を超える高給取りだが、

地位や権力を保つためには、それなりにお金がかかる。

給料だけでは足りないという者も少なくない。

足りない分を賄賂で補てんしているのだ。

それを断たれたら、大奥の上級女中たちはどう感じるだろう。

見せしめにするつもりだろうが、効果は長く続かないだろう。

於富が、大崎を処罰する事を同意するはずがない。

長年、仕えた者を見捨てる薄情な人ではない事はわかっている。

大崎は、於富を信じる事にした。

一方、家斉は、定信からあいさつそこそこ、

心得をつき出されて面食らった。

その上、心得に違反した大崎を罰すると言い出したのだ。

「就任早々、将軍付老女を罰するとは何たる事か」

  家斉が不機嫌を露にした。

「横田準松の罷免は致し方ない事で、

いずれは、公方様もそうなさった事とは存じますが、

大崎局が、公方様に、横田を罷免するよう

言上したとの風聞が広まった以上、

黙認するわけにはいきません。

それに、大崎局への処罰ば、

格好の見せしめとなり大奥を牽制する事になります」
 
 定信が堂々と意見を述べた。

「なれど、大崎局を処罰するとなれば、

於富様や高丘局の2人が黙ってはおるまい。

大崎は、於富様に長年、仕えてきた。

高丘局も、大崎に信頼を置いている」
 
 家斉が口をとがらせた。

「お2人には、すでに同意を得ております」

 定信が自信を持って答えた。

「それは、まことか? 」
 
 家斉は思わず耳を疑った。

もしかしたら、於富の耳に、大崎が、

治済と関係した話が入ったのではないか? 

夫と不義密通したとなれば、情けをかけようがない。

「不義密通の疑いもある故、厳罰に処す所存でござる」
 
 定信が冷ややかに告げた。

「何じゃと? 黙っておれば言いたい放題言いよって。

民部卿と大崎局が、不義密通を犯すはずがなかろう」

  家斉は勢い良く立ち上がると、松平定信に詰め寄った。

「公方様」
 
 部屋の隅に控えていた定之助があわてて止めに入った。

「定之助、刀を持って来るのじゃ」
 
 家斉は、血走った眼で定之助に命じた。

「刀を持ち出すとは、正気の沙汰でござらん。

乱心と思われても余儀なし」
 
 定信が冷静に告げた。

「ただちに、今の言葉を撤回せよ。

さもなければ、貴様をこの場で成敗してくれるわぃ」
 
 家斉は、定之助から刀を受け取ると構えた。

「罷免を覚悟で奉ります。

大崎局は民部卿と結び、公方様に、横田準松を罷免するよう

進言した事は明らかでござる。

大崎局は、民部卿から召し出しがあった日、

民部卿に、強姦されたという証言もござる。

大崎局は、事実が公になる事を恐れるあまり

民部卿の沙汰に従ったと思われます」
 
 定信が持参した調査書を突き出した。

 家斉は、逸る気持ちを抑えながら、調査書に目を通した。

大崎が、一橋家に出向いた日、2人は密議を凝らした。

その時、徳川治済は、大崎を強姦したという証言が確かに記されている。

さらに、主従の関係を超えて、

深い仲になった2人は文を交わして、

田沼派の一掃を策略したと調査書に書かれていた。

「己を白河へ追いやった張本人を陥れて満足か? 」
 
 家斉は、調査書を畳の上に叩きつけると嫌みたっぷりに言った。

「我が、白河藩主と養子縁組した頃は、

まだ、家基君は息災であった。

民部卿が、主殿頭と共に我を白河へ

追いやったというのは事実ではござらん」

  定信がきっぱりと否定した。

「父上と大崎局は、どうなるのじゃ? 」
 
 家斉が声を荒げた。

「大崎局が、同意の上、事に及んだならば、

尚の事、罪が重くなります。

その昔、側室が、御褥の折、公方様におねだりをした事が問題となり、

御坊主と御中臈が監視する事になった。

残念ながら、城の外までは目が行き届きません。

その隙をついて、2人は密通した上、

政敵を廃す事を示し合わせた。

本来ならば、死罪あるいは座敷牢に値する大罪でありますが、

民部卿は、御三卿の当主であり将軍の父にあたる故に、

重罪に処す事は難しい。

大崎の方も、於富様の申し入れを考慮して座敷牢よりも、

軽い刑を考えております」
 
 定信が冷静に告げた。

「貴様は、ただ、恨みを晴らしたいだけではないか? 」
 
 家斉が、定信につかみかかった。

「何を申されますか? 幕閣の儀に私情を挟むまねはしません。

老中首座の座を懸けてお誓い申す」
 
 定信がきっぱりと断言した。

「これで、そちは、大奥を敵にまわした事になる。

奥女中らを如何にして言う事を聞かせる気じゃ? 

奥女中は、役人と同じわけにはまいらぬぞ」
 
 家斉が口をとがらせた。

「我は主殿頭とは違います。

あの人は、大奥の権力を後ろ盾に成り上がった。

幕府の財政を逼迫させた大奥に倹約させなかったのは、

大奥に見限られたら、終わりだと知っていたからでござる」
 
 定信が冷ややかに告げた。

「政策が失敗した時は、全ての責任を取ってもらう故、

心してかかるが良い」
 
 家斉はくるりと背を向けた。

「もちろん、失敗した時は、

老中首座を降りる覚悟で取り組む所存でござる」
 
 定信は、堂々と胸を張って宣言した。

 それから数日後。治済は登城禁止と蟄居に処され、

大崎は御次に降格となった。

将軍付老女から、一介の奥女中となった

大崎についていた部屋子たちは、

新たな職場へ異動となった。噂は広まっていたため、

誰も大崎の降格に驚いた様子はなかったが、

今後、大崎にどのように接したらよいか

悩みが増えた事は間違いなかった。

「何時から、遷って来るのかしら」

「同役とはいえ、元将軍付老女を

何とお呼びしたらよろしいのでしょうか? 」

 大崎の上役になる者や相部屋になる者たちは気が気でなかった。

高丘は、開け放たれた座敷を眺めながら、

於知保が、【桜田屋敷】へ遷る日の前夜の事を思い起こした。




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