第1話 身代わり
文字数 2,423文字
安永8年、2月某日、丑3つ時。江戸城西丸御殿。
この時の西丸の主は、10代将軍徳川家治の嫡子である家基。
この日、泊り番を務めていた家基付近習、酒井忠香は、
手燭を手に御殿内を見廻っていた。
庭に面した長廊下を歩いていた時だ。
庭の方からかすかに物音が聞こえた。
酒井は、忍び足で庭へ降りると目を凝らして辺りを見回した。
すると、木陰に白い人影が見えた。
おそるおそる木に近づくと、木陰から何者かが姿を現した。
その時、ちょうど、雲に隠れていた月が顔を出して庭を照らした。
酒井は、バツが悪そうに木陰から姿を現した
人物の正体を知り驚きのあまり尻餅をついた。
「斯様な夜更けに何方かと思えば、大納言様ではござらんか。
いったい、何をなさっておられましたか? 」
酒井が困惑気味に訊ねた。
「月見をしておった」
家基は目を反らすと答えた。
「まことでござるか? 」
酒井が上目遣いで訊ねた。
「いかにも」
家基は咳払いして返事した。
「今宵は、大分、冷え込んでおります。
風邪をめされぬよう早う中へお戻りくだされ」
酒井は家基を城の中へ促した。
翌日の午後。部屋住の中野定之助は、
家基のお目付役を任されている家治の側近で
老中の田沼意次より呼び出しを受けて登城した。
「何故、召されたのかはわかるな? 」
意次は、神妙な面持ちで話を切り出した。
「昨夜の件でしたら、全ては私の失敗が招いたことでござる。
大納言様は否はござらん」
定之助は観念したように白状した。
「いったい、何の話をしておる? 」
意次は、眉間にしわを寄せると訊ねた。
「違うのですか? 」
定之助が驚いた顔で訊き返した。
「そちを召したのは、先日の話の続きをするためじゃ」
意次が告げた。
「お話というのは、吹上庭に、火札と共に
胸に釘を打たれた藁人形が投げ込まれた件でございますか? 」
定之助が身を乗り出すと訊ねた。
「いかにも。その件で、そちに任務を与えることと致す」
意次が姿勢を正すと告げた。
「ははあ」
定之助がその場に平伏した。
「火札には、公方様と大納言様がご一緒に品川筋へ御成になる日、
大納言様のお命を狙うと書かれていた。
本来ならば、身の安全を図るため大納言様が
ご遠慮すべきところでござるが、
公方様は、お二人そろっての御成でなければならぬと仰せじゃ。
かくなる上は、替え玉を用意するしかなかろう? 」
意次が険しい表情で話した。
「はあ」
定之助は思わずつばを飲み込んだ。
「それがしは、公方様より直々に、
大納言様の随伴者の選定を任された。故に、そちを替え玉に推挙致す」
意次が告げた。
安永8年、2月22日。家治と家基親子は、
品川の先にある新井近辺へ鷹狩に出掛けた。
鷹狩の間は何事も起こらず、いつもと変わらぬ様子で終えたが、
その帰路、休憩するために、
一行が立ち寄った品川の東海寺で事件が起きた。
家基の替え玉を務めていた定之助が、
脂汗をかきながら腹を押さえて苦しみ出したのだ。
この日、鷹狩に随伴した典医の池原雲伯が処置を務めた。
「大納言様のご様子はいかに? 」
家基付重臣の鳥居忠意が神妙な面持ちで、
定之助の腹を触診している池原の傍らに座ると訊ねた。
「大納言様。今朝、便通はございましたか? 」
池原は、鳥居の質問をさえぎるかのようにして定之助に小声で訊ねた。
「今朝はござった」
鳥居が身を乗り出すと答えた。
「おそらくは疲れがお出になったのでございましょう。
鳥居殿。大納言様に煎じ薬を飲んでいただく故、お手をお貸しくだされ」
池原が、鳥居に煎じ薬の入った茶器を見せると告げた。
鳥居は、「相分かった」と告げた後、
煎じ薬が飲みやすいよう定之助のからだを支え起こした。
「公方様が、大納言様を直ちに城へお連れせよと下知申された」
しばらくして、家治たちに家基の急病を報せに向かった
家基付重臣の石谷清定が戻って来て家治の命令を伝えた。
「大納言様。しばしの辛抱でござる」
鳥居と石谷が両脇に立って、
定之助の肩を担ぎ無理に立ち上がらせようとした時、
定之助はあまりの激痛に「痛い、痛い」と
叫び声を上げてその場に倒れた。
定之助は、一瞬、意識を失くしたものの、
駕籠が動き出した振動により目を覚ました。
城に到着すると、定之助は駕籠に乗った状態で
宇治之間の中まで運び入れられた。
その直後、於知保が宇治之間へ駆けつけた。
その後から、乳母の初崎もやって来た。
「大納言様はいかがなされた? 」
於知保はいつになく取り乱した。
「大納言様は、東海寺にてお倒れになりました」
石谷は冷静に答えた。
「人払いを」
意次が、近習たちの方をふり返ると小声で告げた。
部屋の隅にかたまって座っていた近習たちは、そそくさと部屋を出て行った。
「そちがついおって、何故、斯様な事態になったのじゃ? 」
意次は、近習たちがひとり残らず
部屋を出たのを見計らうと、池原に小声で訊ねた。
「恐れながら、予期せぬ緊急事態でございまして」
池原が決り悪そうに答えた。
「お倒れになった原因は何なのじゃ? 」
意次が訊ねた。
「それが、腹痛を訴えておられる故、胃病を疑い、
煎じた薬を処方致したのですが、
いっこうに、良くなる兆しが見えませぬ」
池原がかすれ声で答えた。
「名医と聞いて推挙したというのに胃病ぐらい治せぬとはのう」
意次が大きなため息をこぼした。
「そこにおるのは意次か? 定之助は大事ないか? 」
2人の間に流れる気まずい雰囲気を打ち消すかのように、
本間と次之間を隔てている襖が開くと、家基が遠慮気に顔を出した。
「さきほどまで痛がっていましたが、今は薬が効き眠っております」
意次が小声で答えた。
「定之助。しっかり致せ。逝ってはならぬ」
家基は、四つん這いの状態で定之助の枕元に駆け寄ると、
掛け布団からはみ出した定之助の白い手を両手で握りしめた。
「大納言様。めんぼくござらん」
定之助が、薄目を開けてか細い声を出した。
この時の西丸の主は、10代将軍徳川家治の嫡子である家基。
この日、泊り番を務めていた家基付近習、酒井忠香は、
手燭を手に御殿内を見廻っていた。
庭に面した長廊下を歩いていた時だ。
庭の方からかすかに物音が聞こえた。
酒井は、忍び足で庭へ降りると目を凝らして辺りを見回した。
すると、木陰に白い人影が見えた。
おそるおそる木に近づくと、木陰から何者かが姿を現した。
その時、ちょうど、雲に隠れていた月が顔を出して庭を照らした。
酒井は、バツが悪そうに木陰から姿を現した
人物の正体を知り驚きのあまり尻餅をついた。
「斯様な夜更けに何方かと思えば、大納言様ではござらんか。
いったい、何をなさっておられましたか? 」
酒井が困惑気味に訊ねた。
「月見をしておった」
家基は目を反らすと答えた。
「まことでござるか? 」
酒井が上目遣いで訊ねた。
「いかにも」
家基は咳払いして返事した。
「今宵は、大分、冷え込んでおります。
風邪をめされぬよう早う中へお戻りくだされ」
酒井は家基を城の中へ促した。
翌日の午後。部屋住の中野定之助は、
家基のお目付役を任されている家治の側近で
老中の田沼意次より呼び出しを受けて登城した。
「何故、召されたのかはわかるな? 」
意次は、神妙な面持ちで話を切り出した。
「昨夜の件でしたら、全ては私の失敗が招いたことでござる。
大納言様は否はござらん」
定之助は観念したように白状した。
「いったい、何の話をしておる? 」
意次は、眉間にしわを寄せると訊ねた。
「違うのですか? 」
定之助が驚いた顔で訊き返した。
「そちを召したのは、先日の話の続きをするためじゃ」
意次が告げた。
「お話というのは、吹上庭に、火札と共に
胸に釘を打たれた藁人形が投げ込まれた件でございますか? 」
定之助が身を乗り出すと訊ねた。
「いかにも。その件で、そちに任務を与えることと致す」
意次が姿勢を正すと告げた。
「ははあ」
定之助がその場に平伏した。
「火札には、公方様と大納言様がご一緒に品川筋へ御成になる日、
大納言様のお命を狙うと書かれていた。
本来ならば、身の安全を図るため大納言様が
ご遠慮すべきところでござるが、
公方様は、お二人そろっての御成でなければならぬと仰せじゃ。
かくなる上は、替え玉を用意するしかなかろう? 」
意次が険しい表情で話した。
「はあ」
定之助は思わずつばを飲み込んだ。
「それがしは、公方様より直々に、
大納言様の随伴者の選定を任された。故に、そちを替え玉に推挙致す」
意次が告げた。
安永8年、2月22日。家治と家基親子は、
品川の先にある新井近辺へ鷹狩に出掛けた。
鷹狩の間は何事も起こらず、いつもと変わらぬ様子で終えたが、
その帰路、休憩するために、
一行が立ち寄った品川の東海寺で事件が起きた。
家基の替え玉を務めていた定之助が、
脂汗をかきながら腹を押さえて苦しみ出したのだ。
この日、鷹狩に随伴した典医の池原雲伯が処置を務めた。
「大納言様のご様子はいかに? 」
家基付重臣の鳥居忠意が神妙な面持ちで、
定之助の腹を触診している池原の傍らに座ると訊ねた。
「大納言様。今朝、便通はございましたか? 」
池原は、鳥居の質問をさえぎるかのようにして定之助に小声で訊ねた。
「今朝はござった」
鳥居が身を乗り出すと答えた。
「おそらくは疲れがお出になったのでございましょう。
鳥居殿。大納言様に煎じ薬を飲んでいただく故、お手をお貸しくだされ」
池原が、鳥居に煎じ薬の入った茶器を見せると告げた。
鳥居は、「相分かった」と告げた後、
煎じ薬が飲みやすいよう定之助のからだを支え起こした。
「公方様が、大納言様を直ちに城へお連れせよと下知申された」
しばらくして、家治たちに家基の急病を報せに向かった
家基付重臣の石谷清定が戻って来て家治の命令を伝えた。
「大納言様。しばしの辛抱でござる」
鳥居と石谷が両脇に立って、
定之助の肩を担ぎ無理に立ち上がらせようとした時、
定之助はあまりの激痛に「痛い、痛い」と
叫び声を上げてその場に倒れた。
定之助は、一瞬、意識を失くしたものの、
駕籠が動き出した振動により目を覚ました。
城に到着すると、定之助は駕籠に乗った状態で
宇治之間の中まで運び入れられた。
その直後、於知保が宇治之間へ駆けつけた。
その後から、乳母の初崎もやって来た。
「大納言様はいかがなされた? 」
於知保はいつになく取り乱した。
「大納言様は、東海寺にてお倒れになりました」
石谷は冷静に答えた。
「人払いを」
意次が、近習たちの方をふり返ると小声で告げた。
部屋の隅にかたまって座っていた近習たちは、そそくさと部屋を出て行った。
「そちがついおって、何故、斯様な事態になったのじゃ? 」
意次は、近習たちがひとり残らず
部屋を出たのを見計らうと、池原に小声で訊ねた。
「恐れながら、予期せぬ緊急事態でございまして」
池原が決り悪そうに答えた。
「お倒れになった原因は何なのじゃ? 」
意次が訊ねた。
「それが、腹痛を訴えておられる故、胃病を疑い、
煎じた薬を処方致したのですが、
いっこうに、良くなる兆しが見えませぬ」
池原がかすれ声で答えた。
「名医と聞いて推挙したというのに胃病ぐらい治せぬとはのう」
意次が大きなため息をこぼした。
「そこにおるのは意次か? 定之助は大事ないか? 」
2人の間に流れる気まずい雰囲気を打ち消すかのように、
本間と次之間を隔てている襖が開くと、家基が遠慮気に顔を出した。
「さきほどまで痛がっていましたが、今は薬が効き眠っております」
意次が小声で答えた。
「定之助。しっかり致せ。逝ってはならぬ」
家基は、四つん這いの状態で定之助の枕元に駆け寄ると、
掛け布団からはみ出した定之助の白い手を両手で握りしめた。
「大納言様。めんぼくござらん」
定之助が、薄目を開けてか細い声を出した。
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