第4話 鷹狩
文字数 2,351文字
別の日の午後。西丸付御年寄の大崎が宇治之間を訪れた。
「大納言様。将軍世子御着任祝着至極に存じ奉ります」
大崎は、畳の上に手をつくと頭を下げた。
「面を上げぃ。何故、そなたまでもが堅苦しい挨拶を致す? 」
家斉が言った。
「若様は、今や、次期将軍にお成りになられました。
これからは、一橋邸のころのようには参りませぬ」
大崎が神妙な面持ちで告げた。
「その方らは、しばし、下がっておれ」
家斉は、控えていた近習たちを体よく追い払うと
下座に座る大崎の傍に座った。
「大納言様。何故、下座へ? 」
大崎が驚いた顔で言った。
「遠くからでは、顔を見て話しができぬ。
大崎。せめて、2人でいる時だけは、
昔のように接してはくれまいか? 」
家斉が寂し気に告げた。
「大納言様。ちと、お痩せになったのではございませぬか?
毎日、きちんと、眠れておられますか?
朝昼の食事を残したりしておられませぬか? 」
大崎が心配そうに訊ねた。
「今がちょうど良い。肥えていたのは、
毎日、何をするわけでもなく、たらふく食っていたせいじゃ」
家斉がガハハと笑った。
「お元気そうで安堵致しました」
大崎が穏やかに告げた。
「一橋邸にいたころ、学問や武芸を疎かにしたせいで失敗ばかりしておる。
近習からは、頼りのないダメな主君だと思われているに違いない。
もういち度、良い師に就いて学び直したい」
家斉がため息交じりに言った。
「まことに、貴方様は、橋家の豊千代君ですか?
同じ御仁の台詞とは思えませぬ」
大崎は、一橋邸にいた時は、ぐうたらで我儘だった
若殿の成長に驚きつつも喜ばずにいられなかった。
翌日から、著名な学者たちが登城して進講が始まった。
家基は、学問と武芸に励むようになった。
西丸に入城してから3か月が経ったある日。
家斉は、家治と共に、鷹狩へ出掛けた。
鷹場は、家基が、突然、体調を崩した後、
18歳の若さで急逝した因縁のある品川の先の新井だった。
鷹狩を楽しんだ後、休憩所へ向かう途中、
家斉君は、目指す先が、品川の東海寺方面ではないことにふと気がついた。
「これ、その方」
家斉は、馬上から、西丸御書院番御徒頭の長谷川平蔵に声を掛けた。
「大納言様。それがしをお呼びでございますか? 」
長谷川が明るい声で訊ねた。
「この道は、東海寺へ続く道で相違ないか? 」
家斉は、記憶している東海寺周辺の風景が
見えて来ないことを不審に思った。
「いえ。此度は、法連寺の方へ向かいます」
長谷川が胸を張って答えた。
「何故、法連寺なのじゃ? 」
家斉は、先を進む家治の後ろ姿を見つめた。
どうやら、何も知らされていないのは家斉だけらしい。
「主殿頭が、法連寺へ向かう様にと下命申されました」
長谷川が答えた。
家斉は、意次の仕業だと知った途端、急に白けた。
家基の死は、江戸城に、暗い影を落とした。
家斉の周囲にいる多くの家臣たちは、元々、家基に仕えていた。
皆、態度には表さないが、何かにつけて、自分と家基を比べているに違いない。
家基は、家斉から見ても、将軍を継ぐに相応しい人だった。
将軍となったら、間違いなく名君となったに違いない。
ぼんやりと考えている内に、一行は【法連寺】に到着した。
家治に続いて本堂に入ると、住職と僧侶たちが揃って出迎えた。
家治は挨拶を済ませると、お茶も断り用意された部屋に入って行った。
「大納言様。主殿頭が、折り入ってお話があるとのことにござる」
家斉が、あくびをかみ殺しているところへ、
長谷川が足早に、家斉の元にやって来て耳打ちした。
(いったい、何用であろうか? )
家斉は首を傾げた。意次は、庭を見渡せる縁側に坐っていた。
家斉が歩み寄ると、意次が頭を下げた。
「待たせたな」
家斉は、意次の隣にどっかりと腰を降ろした。
「滅相もござらん。詫びなど無用でござる」
意次が恐縮した。
「して、そちが、わしに話したいこととはいかに? 」
家斉が、意次の顔をじろりと見つめた。
「此度は、甥の意致が、一橋家家老から
小姓組番頭頭の西城御側取次見習になりました。
改めてご挨拶申し上げたくお呼び立て致した次第。
今後とも、甥共々、よしなにお頼申します」
意次がその場に平伏して告げた。
家斉は、意次の丁寧なあいさつに面食らった。
それと言うのも、意次から、田沼意致の話題が出るまで、
田沼家が一橋家と縁がある事をすっかり忘れていたからだ。
「奥女中らが、美形だと騒いでおったあの見習はそちの甥でござったか」
家斉が言うと、意次が曖昧に微笑み返した。
「いたらぬ所は、多々あるとは存じますがよしなに願います」
意次が再び平伏した。
「先日、意次が、不仲だった家基君を
暗殺したなど心無い風聞を耳にした。
その方はいかに考える? 」
家斉は、意次が立ち去った後、
廊下の隅に控えていた長谷川に言った。
「家基君が、鷹狩の前日、家来らの前で、
幕政に参画したいとのご意向を宣言したのが、鷹狩の数日前でした。
家基君のご意向は、田沼派の勢力を
牽制する為だったと聞き及んでおります」
長谷川が冷静に答えた。
「その方は、たしか、安永三年から、
西丸御書院番士に勤仕しておったな。
家基君が、倒れた日の事を、何か覚えておらぬか? 」
家斉が慎重に訊ねた。
「翌年には、西丸仮御進物番に異動しました故、
家基君がお倒れになった安永8年の鷹狩の時分は、
随伴しておりませんでした」
長谷川が神妙な面持ちで答えた。
「その方も、主殿頭に引けを取らず出世が早いのう」
家斉が皮肉った。
【西丸仮御進物番】は、
意次への貢物を管理する役と言っても過言ではない。
家斉は、飛ぶ鳥を落とす勢いで権勢を誇る
田沼意次の寵愛を受けた者は間違いなく、
出世するという風説は事実だと確信した。
「大納言様。将軍世子御着任祝着至極に存じ奉ります」
大崎は、畳の上に手をつくと頭を下げた。
「面を上げぃ。何故、そなたまでもが堅苦しい挨拶を致す? 」
家斉が言った。
「若様は、今や、次期将軍にお成りになられました。
これからは、一橋邸のころのようには参りませぬ」
大崎が神妙な面持ちで告げた。
「その方らは、しばし、下がっておれ」
家斉は、控えていた近習たちを体よく追い払うと
下座に座る大崎の傍に座った。
「大納言様。何故、下座へ? 」
大崎が驚いた顔で言った。
「遠くからでは、顔を見て話しができぬ。
大崎。せめて、2人でいる時だけは、
昔のように接してはくれまいか? 」
家斉が寂し気に告げた。
「大納言様。ちと、お痩せになったのではございませぬか?
毎日、きちんと、眠れておられますか?
朝昼の食事を残したりしておられませぬか? 」
大崎が心配そうに訊ねた。
「今がちょうど良い。肥えていたのは、
毎日、何をするわけでもなく、たらふく食っていたせいじゃ」
家斉がガハハと笑った。
「お元気そうで安堵致しました」
大崎が穏やかに告げた。
「一橋邸にいたころ、学問や武芸を疎かにしたせいで失敗ばかりしておる。
近習からは、頼りのないダメな主君だと思われているに違いない。
もういち度、良い師に就いて学び直したい」
家斉がため息交じりに言った。
「まことに、貴方様は、橋家の豊千代君ですか?
同じ御仁の台詞とは思えませぬ」
大崎は、一橋邸にいた時は、ぐうたらで我儘だった
若殿の成長に驚きつつも喜ばずにいられなかった。
翌日から、著名な学者たちが登城して進講が始まった。
家基は、学問と武芸に励むようになった。
西丸に入城してから3か月が経ったある日。
家斉は、家治と共に、鷹狩へ出掛けた。
鷹場は、家基が、突然、体調を崩した後、
18歳の若さで急逝した因縁のある品川の先の新井だった。
鷹狩を楽しんだ後、休憩所へ向かう途中、
家斉君は、目指す先が、品川の東海寺方面ではないことにふと気がついた。
「これ、その方」
家斉は、馬上から、西丸御書院番御徒頭の長谷川平蔵に声を掛けた。
「大納言様。それがしをお呼びでございますか? 」
長谷川が明るい声で訊ねた。
「この道は、東海寺へ続く道で相違ないか? 」
家斉は、記憶している東海寺周辺の風景が
見えて来ないことを不審に思った。
「いえ。此度は、法連寺の方へ向かいます」
長谷川が胸を張って答えた。
「何故、法連寺なのじゃ? 」
家斉は、先を進む家治の後ろ姿を見つめた。
どうやら、何も知らされていないのは家斉だけらしい。
「主殿頭が、法連寺へ向かう様にと下命申されました」
長谷川が答えた。
家斉は、意次の仕業だと知った途端、急に白けた。
家基の死は、江戸城に、暗い影を落とした。
家斉の周囲にいる多くの家臣たちは、元々、家基に仕えていた。
皆、態度には表さないが、何かにつけて、自分と家基を比べているに違いない。
家基は、家斉から見ても、将軍を継ぐに相応しい人だった。
将軍となったら、間違いなく名君となったに違いない。
ぼんやりと考えている内に、一行は【法連寺】に到着した。
家治に続いて本堂に入ると、住職と僧侶たちが揃って出迎えた。
家治は挨拶を済ませると、お茶も断り用意された部屋に入って行った。
「大納言様。主殿頭が、折り入ってお話があるとのことにござる」
家斉が、あくびをかみ殺しているところへ、
長谷川が足早に、家斉の元にやって来て耳打ちした。
(いったい、何用であろうか? )
家斉は首を傾げた。意次は、庭を見渡せる縁側に坐っていた。
家斉が歩み寄ると、意次が頭を下げた。
「待たせたな」
家斉は、意次の隣にどっかりと腰を降ろした。
「滅相もござらん。詫びなど無用でござる」
意次が恐縮した。
「して、そちが、わしに話したいこととはいかに? 」
家斉が、意次の顔をじろりと見つめた。
「此度は、甥の意致が、一橋家家老から
小姓組番頭頭の西城御側取次見習になりました。
改めてご挨拶申し上げたくお呼び立て致した次第。
今後とも、甥共々、よしなにお頼申します」
意次がその場に平伏して告げた。
家斉は、意次の丁寧なあいさつに面食らった。
それと言うのも、意次から、田沼意致の話題が出るまで、
田沼家が一橋家と縁がある事をすっかり忘れていたからだ。
「奥女中らが、美形だと騒いでおったあの見習はそちの甥でござったか」
家斉が言うと、意次が曖昧に微笑み返した。
「いたらぬ所は、多々あるとは存じますがよしなに願います」
意次が再び平伏した。
「先日、意次が、不仲だった家基君を
暗殺したなど心無い風聞を耳にした。
その方はいかに考える? 」
家斉は、意次が立ち去った後、
廊下の隅に控えていた長谷川に言った。
「家基君が、鷹狩の前日、家来らの前で、
幕政に参画したいとのご意向を宣言したのが、鷹狩の数日前でした。
家基君のご意向は、田沼派の勢力を
牽制する為だったと聞き及んでおります」
長谷川が冷静に答えた。
「その方は、たしか、安永三年から、
西丸御書院番士に勤仕しておったな。
家基君が、倒れた日の事を、何か覚えておらぬか? 」
家斉が慎重に訊ねた。
「翌年には、西丸仮御進物番に異動しました故、
家基君がお倒れになった安永8年の鷹狩の時分は、
随伴しておりませんでした」
長谷川が神妙な面持ちで答えた。
「その方も、主殿頭に引けを取らず出世が早いのう」
家斉が皮肉った。
【西丸仮御進物番】は、
意次への貢物を管理する役と言っても過言ではない。
家斉は、飛ぶ鳥を落とす勢いで権勢を誇る
田沼意次の寵愛を受けた者は間違いなく、
出世するという風説は事実だと確信した。
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