第56話 京からの使者

文字数 2,486文字

「何故、その事を知っておる? 」
 
 家斉が驚いた表情で聞き返した。

「主殿頭が生前、公方様が、家基君が描いた絵を

大切に持っていたと聞いた覚えがござる。

家基君は、育ての母の御台様が里帰りをなさった時に、

御伴して、京師の清水寺で初めて、清水寺能を見て、

坂上田村麿が好きになり、帰国後、

その時に御覧になった修羅能を描いたようでござる」
 
 石谷が懐かしそうに語った。

「これは、家基君が描いた絵なのか? 」
 
 家斉は、何処かで聞いた話だと思ったが、

家基とは生前、接点がなかったため

記憶違いかもしれないと思い直した。

「越中殿が申された通り、

やはり、これは、しまっておくべき物かと存じます」
 
 石谷がやんわりと告げた。

「もう、要らぬ。処分は、そちに任せる」
 
 家斉は、掛け軸を石谷に押しつけた。

「要らぬなら、わしにくだされ」
 
 どこからともなく、定之助が現れて両手を差し出した。

「いや、これは、それがしが、責任を持ってお預かりします」
 
 そうかと思えば、石谷が、掛け軸を持って行こうとした。

「返せ。やはり、このまま、ここにかけておく。

誰に、何と思われようと関係ない」
 
 家斉は、石谷の手から掛け軸を奪うと床の間に飾った。

 目の前で、2人の男が、掛け軸を取り合う姿を見て、

掛け軸を失うのが惜しくなったらしい。

家基の絵と聞、気持ちが冷めた事は事実だが元々、絵を気に入り、

毎日、眺められるように掛け軸に仕立てさせたのだ。

未練がないわけではなかった。

「公方様。越中殿は、正論を申されたが、

やんごとなき御仁の遺品ならば大切になさるべきかと存じます」
 
 定之助が、家斉を励ました。

「この掛け軸が好きだと申す者は多い。

それがしも、その内のひとりでござる」
 
 石谷も、つられて本音をもらした。
 
 一方、光格天皇が、父の閑院宮典仁親王に尊号を贈る一件は、

朝幕関係を揺るがす大事件に発展した。

京都では、鷹司輔平や後桜町上皇が、

光格天皇を説得する一方、天皇の近侍の中山愛親は、

天皇が、父の典仁親王に、【太上天皇号】を

宣下出来るように入念な策を練っていた。

 寛政5年、遂に、入念に練った策を実現する機会が訪れた。

幕命を受け、武家伝奏の正親町公明と共に江戸に喚問され、

定信と対談釈明する事になったのだ。

中山は、最初から、定信を説得する気はなかった。

何としても、家斉に拝謁して直談判し

御所の再建の時のように申し入れを受け入れてもらう手段に出た。

定信をはじめ、老中たちは予想通り、

話を聞くどころか理屈を並べて反対して来た。

「中山殿。そちらは、中奥ですぞ」
 
 厠に行くフリをして、席を立ったまま、戻らない中山を心配して、

捜しに出た正親町公明は、中奥へ向かって歩いていた中山愛親を見つけて、

あわてて呼び止めたが、中山愛親はふり返る事なく行ってしまった。

 【中奥】と【表向】の境には、

【上ノ錠口】と【中奥】の2か所あるが、

中奥は、【土圭之間】にあり、

奥坊主が常勤し、表向の役人が無断で、

【中奥】に入らないように見張っている。

「失礼致す。公方様に、御取次願いたい」
 
 突然、乱入して来た中山に、奥坊主の円成坊があたふたした。

「円成坊。公方様にお茶を出してくれるか」
 
 その時、ちょうど、定之助が、

【土圭之間】にやって来て中山と出くわした。

「家‥ 」
 
 中山は、京都で数回、会った顔見知りと再会し、

思わず、名を呼ぼうとしたが、中野定之助が、

中山の口を手で押さえため、円成坊にはその先、

何を言っているのかわからなかった。

「只今、お持ちします」

 円成坊は、とりあえずお茶をたてはじめた。

「貴方様は、確か、身罷ったはずでは? 」
 
 中山は、中野定之助に無理矢理、

御小納戸部屋に引っ張られると小声で訊ねた。

「この通り、ピンピンしておる。色々あって、死んだ事にしたのだ。

今は、本丸小納戸の中野定之助で通っている」
 
 定之助が、中山に耳打ちした。

「貴方様が、生きていた上、別人になっていた事は驚いたが、

また、会えて嬉しく思う。貴方様が、公方様の御傍におるなら安心だ。

頼む。取次いでもらえぬか? 」
 
 中山は、頭が混乱していたが、ここまで来たら、

引き下がるわけにも行かずわずかな可能性にかける事にした。

「良かろう。ここで、待っておれ」

  定之助は、中山を【御座之間】の前に待たせると、

【御休息之間】に入った。しばらくして、

黒書院の奥の杉戸が開いて、家斉が、【御座之間】に姿を現した。

「それへ」
 
 家斉は、上座に着座すると、

【御座之間】の前に着座し平伏す中山愛親に声をかけた。

「公方様より、謁見賜り、恐悦至極にございます」
 
 中山は、家斉の御前に着座するとその場に平伏した。

「折り入って、余に、話とは何じゃ? 

そちは確か、例の件で、老中と対談釈明する為に登城したのじゃろう? 」

  家斉が穏やかに訊ねた。

「老中と話をしたところで、帝の御心地は何も伝わりませぬ。

公方様であらば、御尊名頂けるのではないかと、

腹をめす覚悟で御目通りを願い出た次第」
 
 中山が上目遣いで告げた。

「相当、切羽詰まった様子だが、何故、帝の為に、そこまでする? 」
 
 家斉は、中山の光格天皇に対する忠誠心に感心した。

「公方様も、父御の民部卿に、

大御所の尊号を差し上げたいとお望みだとお聞き致しました。

父御を敬うお気持ちは、帝も、将軍も同じと存じ奉ります」

 中山が情に訴え出た。

「越中が申すには、此度の一件は、忠と孝の衝突だそうじゃ」
 
 家斉が身を乗り出して言った。

「忠と孝でございますか? 」

 中山は首を傾げた。

 中山の問いに対して、家斉は、帝が、長い間、途絶えていた

朝儀の再興や朝権の回復に熱心なのと同様、

老中をはじめ幕閣の首脳らが、失政により、

下回った幕府の指導力を回復するため、

学制改革を行い朱子学を再興させようとしておる。

朱子学は、本来、儒教が徳目とする孝よりも、

大義名分、主君への忠。そして、君臣の別に重きを置いている。

故に、父上に尊号を贈る孝を求めても無駄だと冷静に語った。

「さようでございましたか、ようやく、謎が解けた気が致します」
 
 中山が大きくうなづいた。

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