第63話 海防

文字数 2,252文字

「ははあ」
 
 円成坊がその場に平伏した。

「して、父上に、並々ならぬ恩があると言うのは、

どういうわけか聞かせてもらおう」
 
 家斉は腕を組むと反り返った。

「当寺が、金森家の菩提寺だった御縁で、

私は、江戸に下って間もない頃、

当寺でしばらく、厄介になっておりました。

その頃、来訪なされた民部卿と近しくなり、

身の上話を致しましたところ、

水戸様の御屋敷で私が捜している絵と同じ

絵を御覧になったと申された故、

何とか、水戸様にお仕えする事は出来ないかと頼んだ次第」

  円成坊が神妙な面持ちで事情を語った。

「わしは、こやつを不憫に思い、

鶴千代君の近習が、急死した事を思い出して、

一橋家の遠縁だとして、こやつを近習に推挙してやりました。

てっきり、水戸家にあるものと思っていましたが、

公方様の元に渡っていたとは縁があったのですな」
 
 治済が言った。

「父上が、此度の謁見について

お知りになった経緯はわかりましたが、

円成坊は、余が、誰と対面するのか話さなかったはず。

何故、父上は、謁見の事を御存じだったのでござるか? 」
 
 家斉が、治済に慎重に訊ねた。

「工藤本人から聞き知りました。

工藤が、多くの人望を集め、

先見の明を持つ者ならば、

世を変える事が叶うかもしれませぬ」
 
 治済は、いつになく真剣な様子で訴えた。

「同席を許します」
 
 家斉は、治済もまた、同じ意見を持っていると確信した。

工藤は、2人の会話が終わると同時に姿を現した。

「此度は、公方様より、謁見賜りまして恐悦至極にございます。

御目通りを願いましたのは、林子平の処罰の件で、

ぜひとも、公方様にお伝えしたき儀があった故の事にございます」
 
 工藤が、神妙な面持ちで話しを切り出した。

「余も、そちと同意見じゃ。

林が説いた海防論は理に適っておる。

まさしく、余が考えていた通りの事が書かれてあった。

聞くに、そちには、多くの支援者がいるそうではないか? 

林が処罰を受けた事により、

そちも連座するのではないかと案じている者もおるようじゃ。

幕閣に、そちを擁護する上奏が届いておる故、

連座する事はまずない。

それが聞きたくて、謁見を願ったのでござろう? 」
 
 家斉が穏やかに告げた。

「私が拝謁を願い出たは、保身ではなく、

公方様が下々の意見に、耳をお貸しくださると聞いたからでございます。

恐れながら、海防を強化すべき時に、

鎖国を理由に、何もしないというのは如何なものかと存じます」
 
 工藤は真摯に訴えた。

「敵に攻められてから、何とかしようとしてもおそい。

どうも、越中は、国や民の為だというよりも、

己の信念を曲げたくないだけに思えてならぬ」
 
 家斉は厳しい面持ちで言った。

「幕臣の間でも、海防の強化を主張する者もいる。

本多忠籌は、赤蝦夷の南下に備えて、

海防を強化するためには、

松前藩領となっている蝦夷地を天領とし

開拓を進めるべきだと申していました。

なれど、越中殿は、旧来通り、

松前藩が統治するべきとの考えを譲るつもりはない様だ」
 
 治済は、わざと大きな溜息をこぼした。

「余は、幕閣に、海防積極論者を

据えるよう働きかけるつもりじゃ」
 
 家斉が言った。

「そうして頂けると、海防積極論がより通りやすくなります。

海防の重要性を説いた書物が幕臣の間にも出回り、

密かに、廻し読みされているようです。

世論が、味方につくのは必至と存じます」
 
 工藤が確信を込めて告げた。


寛政2年、4月16日。本多忠籌は老中格となり、侍従に任官した。

入牢していた最上徳内は、一時、病にかかるものの、

本多利明達による釈放運動もあったが、

何よりも将軍の恩赦は、効果てきめんで、

最上徳内は、即座に放免となった。

家斉は、最上徳内を普請役に命じると共に、

蝦夷地の開発再開の重要性を幕閣に説いた。

釈放後、最上は、幕府が、松前藩に命じていた

アイヌの待遇改善が行われているか実情を探るため、

蝦夷地へ赴く事となった。

 最上は、蝦夷地上陸後、精力的に、

国後、択捉からウルップ北端まで各地を巡り調査を行った。

最上は、蝦夷地に滞在した経験を活かし交易状況を視察しつつ、

藩士に量秤の統一等を指示。

アイヌには、作物の栽培法等を伝授し、

厚岸に神明社を奉納して教化も試みた。

さらに、赤蝦夷南下に伴い、漂流民への対応問題が浮上した。

日本と国交を結んでいない赤蝦夷やアメリカ等の諸国に漂流後、

現地人に救助された日本人は、

帰国の術はないため長期滞在はやむを得なかった。

その一方、正式に、日本と国交を結んでいる

朝鮮に漂着した日本人は、

保護下に置かれ帰国の目途もついた。

たとえ、帰国出来たとしても、

帰国後は、他国への渡航を禁じられた上、

死亡時は幕府に届け出なければならない。

天明2年の12月。駿河沖で遭難した大黒屋光太夫をはじめとする

伊勢国の【神昌丸】乗組員17名が、

約8ヶ月の漂流の末、船内で死亡した1名を除く一六名が、

赤蝦夷帝国の属領となっているアリューシャン列島の

アムチトカ島に漂着、極寒の地で

仲間を次々と失いながらも4年後、

現地の赤蝦夷人たちの協力を得て、

作った船で、カムチャツカ【カムシヤツカ】に渡った。

翌年に、カムチャツカを出発し、

オホーツク【ヲホツカ】・ヤクーツク【ヤコツカ】を経由し、

寛政元年、イルクーツク【イルコツカ】に到着した。

大黒屋光太夫たちには、日本へ帰国する術がなく

赤蝦夷に永住する事を覚悟したが

望郷の思いが捨て切れなかった。

光太夫は、日本へ帰国する手段を模索していた時、

スウェーデン系のフィンランド出身の

博物学者のキリル・ラスクマンと出会った。

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