第23話 対立

文字数 1,831文字

【御休息之間】を出ようとした時だった。

廊下で言い争う声が、耳に飛び込んで来た。

慎重に、障子を開けると、

鳥居忠意と意次が口論をしているのが見えた。

「公方様の御前である。諍いならば他で致せ」
 
 家斉が、2人の間に入ると言った。

「主殿頭は、公方様の療治に、

庶民の療治に用いる薬を投薬させると申しておりますが、

まことの話でござるか? 御匙が、

公方様に庶民の療治に用いる薬を投薬する事は先例のない事でござる」
 
 鳥居が興奮気味に訴えた。

「公方様の病を治す薬が、

庶民の療治に用いる薬であった故、仕方がなかろう。

鳥居殿。そちは、公方様をお救いしたくはないのか? 

我は、お救い出来るならば、何だって試す所存じゃ」
 
 意次は強く反論した。

「今しがた、わしも、御匙から療治について委細を聞いたところじゃ。

まことに大事ないのか? 公方様は信用しきっておられるが、

わしは不安で仕方がない」

  家斉が心配そうに言った。

「何卒、あの者らを信じてお任せくだされ。

必ずや、公方様を救ってくれるはずです」
 
 意次は頭を下げると、足早に、その場から立ち去った。

 ところが、あってはならぬ事態が起きた。

布に包んで患部に貼ったにも関わらず、

傷口に、石蒜が染みるという医療事故が起きたのだ。

傷口から、体内に侵入した石蒜は、

家治のからだを危険な状態に陥らせた。

 一時、危篤状態になった時、朦朧とする意識の中で、

家治は、天上に浮かび上がった

意次の幻想を亡者と見間違えて

外にも聞こえる程の大声で罵ったという。

しかし、意次はその頃、

とっくに帰宅しており城内にはいなかった。

 石蒜を用いた療治が失敗に終わっただけでなく

家治の命を危うくしたとして、怒り狂った於知保が、

家治に、奥医師2人を罷免し意次を

遠ざけるよう迫ったのは言うまでもない。

「石蒜が、傷口から、御身に入るなんぞ、

誰にも仕儀がつかぬ事でござる。

あの者たちは、石蒜を用いた療治に慣れております。

此度は、過ちではなく、不慮の事故に違いない」
 
 意次が必死に弁解した。

「そなたのせいで、公方様は、生死の境を彷徨われた。

公方様の御命を軽んじ、己の力を過信しておる者共に、

療治を任せてはおけぬ。

あの者らを登用したそなたの罪は重い。

罷免されなかっただけでも、有難く思うのじゃ」

  於知保は、鬼の形相で言い放ったという。

 その時の2人の様子は、誰からともなく城内に広まり、

一度は消えた暗殺説が、またもや、囁かれる事となった。

登城を禁じられた2人の代わりに、

大八木伝庵を復帰させ家治の療治にあたらせる事となり、

意次の立場はますます悪くなった。

7月の半ば、江戸は、連日のように大雨が降り続き、

江戸の深川・亀戸・下谷・浅草は浸水し、

千住の民家の水位は鴨居まで達した。

大雨で、水かさが増した河川が氾濫し大洪水となり、

両国橋・新大橋・永代橋が流失した。

 28日に、ようやく、水が引くと、

歌舞伎の芝居小屋の【中村座】と【桐座】に、

町奉行から避難民への炊き出しの命が下ったため、

芝居の出演者をはじめとする芝居小屋の関係者及び

芝居町で商いする茶屋などが総出で3日間の炊き出しを行った。

 この水害は、農作物に深刻な被害をもたらした。

凶作による米価の高騰で、市中が騒然となる中、

家治公暗殺の噂が、

あっという間に城を飛び出して市中まで広まった。

大奥だけでなく、城内まで箝口令を強いているにも関わらず、

遠国にいる大名にまで広まっていた。

根強い暗殺説が噂される意次を罷免しない

家治公の心中を誰もが押しはだかった。

一説には、律儀な性格が災いして、

先代の遺言を頑なに守るあまり、

意次を罷免する事が出来ないともいわれたが、

意次は、家治の秘密を握っており、

家治が、自分を罷免した時はその秘密を公にすると

脅しているのではないかというのが家斉の見解であった。

「おそいですぞ」
 
 家斉が厠から戻ると、

治済が仏頂面で家斉を待ち構えていた。

「お見えになるなら、前もって、報せてくだされば、

お待ちしておりましたのに。もしや、火急の用でござるか? 」
 
 家斉が慎重に訊ねた。

「公方様の重病説が、諸大名の間で広まっているようじゃ。

わしの元にも、問い合わせが多数、来ておる故、

確かめに参った次第じゃ」
 
 治済は、扇で顔を仰ぎながら言った。

「公方様には、お会いになりましたか? 」
 
家斉は改まって訊ねた。

「勿論、宮内卿と共に、公方様より謁見賜った。

貴方様の元にはそのついでに寄ったのじゃ」
 
 治済が扇を懐にしまうと答えた。

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