第20話

文字数 922文字

 いつからそこに立っていたのかと思った瞬間、地面に激突したかのごとき衝撃に見舞われ、動悸がした。声が出なかった。圧迫感が視覚や聴覚にまで広がり、二度三度と息が止まった。誰かが仕事の気配をまとって素通りするも姿が見えない。なんと、本物の死のお出ましだ! ここから病院へ運ばれるのか? こんな場所で? しかし、哀れな娘婿ならいざしらず、誠司が自宅に帰ることは二度とない。もはやどうしようもない。ついに妻のもとへいけるとか、あの世の世界とか、誠司はまったく何も望まなかった。ただ消えるのみだ。それがありとあらゆる物事の最後の姿だ。ところが、今度は、人の輪郭のようなものがぼんやりと浮上しはじめた。自分が紅潮しているようにも、青ざめているようにも感じる。がっくりと膝をつくのは無理だが、座ることならできるかもしれない。そうだ。座りさえすればどうってことはない。とにかく座りさえすれば――
 誠司はほんのわずかに椅子を模したスツールに、よろよろと腰かけた。
 ちょうどそこに、無造作に破りとったクラフト紙に、二枚のクッキーがあった。さっきから従業員が気にして、誠司の周辺をうろうろしているのだった。
「もしよければ。これもメニューにないものなんですが。どうぞ」
 言われてはじめてモカのつよい香りが鼻をくすぐった。そこでマキネッタを洗っていた。
「あの階段はつかえるの?」
「非常口なのでいつもは」
 答えたのはカウンターの外でモップをかけている従業員だった。
 男が従業員に何かささやき、カウンターの向こうから覗きこんだ。誠司は自分がいた五十センチ四方をさっと拭いた。なにを悠長に油を売っているのか。営業がつづいているのだ。
 誠司が視線を走らせると、テーブルで向かい合っている常連と思しき連中に、さっと草食動物のような緊張が走った。その瞬間、誠司は撃ち殺してやりたいと思った。少なくとも、今なら撃ち殺しても許されるような気がした。そうはいってもこの国に銃は存在しない。そんな経験はドラマの中でしか知らない。彼らがすることは、もっとこせこせしている。たとえるなら、虫眼鏡を用いなければ補足できないようなちっぽけな衝動性なんかを、後生大事にかかえて生きるようなこととかだ。
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