第10話

文字数 1,023文字

 ちょうど一般企業の退社時刻だった。誠司は孫のワンピースやタオルをかき集めながら、絵美がインターホンに応え、子供を抱いて出ていくのを見ていた。
 誠司がロビーへ降りてみると、袖まくりした白シャツにノーネクタイの男が、なにやら紙袋を渡しているところだった。絵美の「ちょっとやめてよ――」というのは誠司に向けての言葉で、その恩着せがましい男には親の家だからと弁解しているようだった。
 チェストベルトつきのリュックを背負い、妙に涼しい顔をした男だった。やはり誠司には目もくれずに、そそくさと帰っていった。
 幼児向けのおやつとドリンク。青やピンクのヴィーガンのマフィン。いったいどういう名目の差し入れなのか? こんなものを平日の夜につくりたくなるものか? 誠司の中で疑問が渦巻いているのを見てとると、絵美は言った。
「あたしは素直にうれしいよ。お父さんはちがうの?」
「自分で働いてためた金があるじゃないか」
「あんなのとっくに使ったよ。店の資金に。たしかに食べ物に困るほどじゃないけどね」
 絵美はグラシンカップをはがして一つを食べた。さっそく気に入って、くすっと微笑んだ。誠司は肘をつくのをやめなさいと注意した。一度言ったくらいではやめなかった。「ほら、聞こえないのか」
 誠司は、ガラスの器からピスタチオをとったとたん、急に投げ戻した。そしてまたソファに身を預けた。
「あれは独身なんだろ。お前に言い寄ってるのか」
「あたしが結婚してるのに? 子供だっているよ」
「早く店に戻ってほしがっていたようだが――」
「あたしが戻ったらいい見世物だよね。どうなんだろうね」
 絵美が弾みをつけてらくらくとかえでを抱き上げた。かえでは一個の半分しか食べられず、ほかのすべてと一緒に、その残りも絵美が食べてしまった。
 誠司が息を吐き出すと、自分にしか感じられないくらいに体が震えた。わが身を取り巻く現実に耐えることしかできない。話が浮気だけであるうちはまだ被害者でいられたのだ。さっきの男が人違いをしたみたいに戸惑っていたことに、絵美が気づいているのか、いないのか、誠司にはわからなかった。
 誠司は追いかけるように絵美が消えたキッチンのほうを見た。いったいうちにきてから何キロ増えた? これみよがしに脱衣室に置いた体重計を昨日もチェックしたが、やはり絵美がのった記録はなかった。その都度リセットしているのか。まったく――、と誠司は一人で呟いた。どうせ鏡を見て知ってるというのだろう。
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