第9話

文字数 1,052文字

「アルバムは?」と絵美がとってつけたような明るさで言った。
「どこかにあるだろ。自分で探してみろ」
 誠司は娘の無神経が気にさわりはじめた。ちょうどロールに巻いた杜若の柄の紺のスカーフを見つけると、それだけもって退散した。中に銀のスプーンとフォークが六セット。買い足していたのだ。懐妊の知らせを受けた直後だろうか。そうだ。そのときしか有り得ないではないか。今を逃したら二度と手に入らないと色めき立つ妻の様子が目に浮かんだ。しかし六つ――
 眠いようでいて眠れない虚脱感が忍び寄ってくるには、まだ早過ぎる時刻だった。午後一時だった。指を動かすだけのことが、どうしてこんなに目が疲れるのだろう? しかし、それは本当に目なのか? そう思い込んでいるだけなのか?
 何本かはスカーフの端を折り重ねて包んでいた。磨いたのは半分の六本。これ以上つづけると目眩を起こしかねない。
「あっ、そうそう、まだ言ってなかったよね。前の店にいっても何もないから」
「ないってそれは――店をたたんだのか」
「移転したのよ。暇だったら見てきたらいいよ。やっぱり知らないんだ」
 スマートフォンに住所を入力してみたが、まだ地図上に存在していなかった。「そうだろうね」と絵美がのぞきこんだ。
 誠司は、絵美が離れたのを見計らって、ツイッターを開いた。暗がりできらめくビールサーバー、グラス類、つややかなカウンター、以前のところもあまり覚えているとは言いがたいので、娘婿のアカウントに映し出されたバーを見ても、いまひとつわからなかった。しかし、移転後の形式ばった挨拶から、更新が減っているようだ。
 誠司は何かあったのかと言いかけた自分をいさめた。その何かがあったから絵美がここにいるのだ。移転がそれに関係するか、あるいは単なる規模の拡大かは、この際どうでもいいことだ。
 それから二日間家に閉じこもっていた。手際の悪い絵美から包丁をとり上げ、誠司が冷凍肉を切り刻んだ。翌日は断続的な雨だった。そして夜中の土砂降りから一転して、さんさんと太陽が降り注ぐ昼日中に、かえでと取り残された誠司は、ここに軟禁されているような気持ちを味わっていた。娘婿と通じ合わないようにだ。本気で考えているのではないにしろ、現実にそうなっている。
 絵美が戻ったのは、もう数分で十二時になろうかというときだった。「あとは家にいるから出かけてもいいよ」絵美はクロワッサンのように表面がぱりぱりのパンに、フランス料理のような具をはさんだ惣菜パンを買っていた。
 誠司はその日も外に出なかった。
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