第37話

文字数 1,235文字

 電動自転車の若い親たちを見ると、ふたたびあずみのことを思い出して、誠司の中で怒りが燃え上がった。意中の女性と休日デートをするみたいに車で待つつもりなど毛頭なかった。こまっしゃくれた女を相手に、これ以上何かを費やすのが我慢ならなかった。やつと一緒にいて絵美が楽しそうにしていたか? かえでが懐いていたか? すくなくともあずみがかえでを利用したのは本当だろうと信じた。
 並んで歩きながら絵美が言った。「いつからきてたの」
「わからん。電話があってすぐにきたんだ。中で誰かに聞いてくれ」
 保育士に抱かれたかえでに、ぱっと笑顔が広がった。絵美にしがみつきながらも、その小さな手で、ちょっかいをかける誠司をぎゅっとにぎり返した。ここでの生活がいい影響を与えていることは間違いなかった。
 保育士の彼女たちは、危険がとり除かれさえすれば、優れた思いやりを発揮する。きっとこんなにひどい一日でなくとも、不信感を与えていたにちがいない。もっと自らすすんで交わらなければいけないのだ。
「妙な電話をうけて気が動転したものだから。もう大丈夫。いろいろお騒がせして悪かった」
 彼女たちはそこを追求するかわりに、わざわざ男性の保育士を呼びつけた。同性でなければ話しにくい内容があるかもしれないと考えての気遣いだった。たくさんの人間に応対しながらも、みんな笑顔だった。まるで車道のど真ん中に立っているような気忙しさだが、ここはあくまで聖域だった。
「ありがとう」誠司はすっかり安心して言った。だが、絵美に目をやると、ここから先はどんなに手を尽くそうと容易にはいくまいと思った。
「お父さんのところにいっていい?」絵美は自分の車のドアを開け、とてもゆっくりした動作でかえでをチャイルドシートに降ろした。ベルトをまさぐりながらふり向こうとした。「うちじゃ安心できないから」
 誠司は自分の車に向かって踵を返した。「家に上げてたんだな――」
 自宅に着くなりエアコンをつけ、顔と手を洗った。誠司は冷蔵庫を開き、こんなときに自分がビールを欲しがったことに驚いた。
まだだ。まだ車を出すかもしれない。
「いきなりそんなこと言われたってわかるわけないじゃない」絵美が声を抑えて言った。絵美は荒っぽい口調に反して、何もない壁に向かって、救いを求めるようにうな垂れた。「いいから説明して。どうしてその人だと思うの? じゃあどういう関係なの――?」
 電話で話しているかぎり、絵美が呪縛から解けることはなさそうだった。誠司は濡らしたタオルでかえでの首と顔を拭いてやった。柔らかい髪を後ろになでつけ、二人で笑顔の腕比べをした。誠司はまるで適わなかった。「今どこにいるか聞いてここに呼び出せ」
 絵美は電話を切り、井坂がタクシーでこっちに向かっていることを告げた。あずみが市外のショッピングモールを指定し、井坂に待ちぼうけを食らわせたのだった。
 絵美は何度もあずみに電話し、呼び出し音を聞きづづけた。「――出てよー」ついに絵美が懇願した。
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