第44話
文字数 1,111文字
その夜は車できたので一滴も飲まなかった。井坂が働いているのを見ただけだから、帰るとまだ八時にもなっていなかった。誠司はリビングのドアを開けて、「あれは相当参ってるな」と嘲笑ともとれる言い方をした。
金属用接着剤と折れた老眼鏡をテーブルに並べてとりかかったものの、光がまぶしくてお手上げだった。日中の日差しで目を焼いたせいだ。もしくはあの日以来ずっとこうだったのかと思うと、急速に集中力が失われてしまい、手の届くところに新聞があるのも煩わしかった。
風呂上りの絵美が電話しているのが聞こえた。絵美は夜のスキンケアをして、パジャマに着替えていた。
「いつもはもう寝てるじゃない。それは明日にしなよ」
絵美が何を考えているかは聞かなくてもわかった。
「なんかしんみりさせて悪いね。あたしのことで」
「なにが? 一人になると毎晩こんなものだぞ」誠司は少しばかりの警告をこめた。
泊まっていけと言ったとき、絵美はとくに返事をしなかったが、それからしばらくあとに電話を切って浴室へいった。そのときもほんの二三分の電話だった。
添え木にする爪楊枝がテーブルの上をころがった。誠司はクッションを腰にあて、座りなおした。
「あたしって自分で自分を追い詰めたんだよね。ほんとに馬鹿なことしちゃった」
「あれはな。客が動画をとってたら一巻の終わりだったな」
「そのことも考えて、ぐずぐずしないように言われてた」
「それは絵美を思ってか? 今もその気持ちを信じてるのか?」誠司はすこしも答えを待たなかった。「帰りはあの女の車だったんだろ。父さんもなめられたものだ。他の客も、井坂くんも。みんなそうだ」
誠司は我知らず、立ち上がってベランダに近づいた。カーテンの向こうを見ようとしたのだ。しかし、相田千佳はそこにいない。いる必要がない。
裏切りによってすべてをぶち壊されたのだ。誠司はもはや一言も意見しなかった。絵美は信じるしかなった。絵美が抱いていた疑念や後悔。あんなこまっしゃくれた女をなぜ、と思えば理解しがたいものだが、絵美が最初から愛情を残していたからだとすれば納得もいく。誠司は思った。幼いわが子。自分が手がけた店。そこへくる客たち。そして共に戦ってきた夫。肝心な場面でよそ見した夫。それを上手に隠せなかった夫。今は避難先からもう一度愛情を取り戻そうとしているのかもしれない。愛とは、すなわち信じる気持ちなのだろう。それで苦しんでいるのか?
裏切った二人が関わっていないというのも、こちらの信じる気持ちでしかないにちがいない。こんなかたちでそれを強いられている絵美にとって、きっと信じるとか信じないとかの議論はすでにどうでもいいのだ、と誠司は思った。
金属用接着剤と折れた老眼鏡をテーブルに並べてとりかかったものの、光がまぶしくてお手上げだった。日中の日差しで目を焼いたせいだ。もしくはあの日以来ずっとこうだったのかと思うと、急速に集中力が失われてしまい、手の届くところに新聞があるのも煩わしかった。
風呂上りの絵美が電話しているのが聞こえた。絵美は夜のスキンケアをして、パジャマに着替えていた。
「いつもはもう寝てるじゃない。それは明日にしなよ」
絵美が何を考えているかは聞かなくてもわかった。
「なんかしんみりさせて悪いね。あたしのことで」
「なにが? 一人になると毎晩こんなものだぞ」誠司は少しばかりの警告をこめた。
泊まっていけと言ったとき、絵美はとくに返事をしなかったが、それからしばらくあとに電話を切って浴室へいった。そのときもほんの二三分の電話だった。
添え木にする爪楊枝がテーブルの上をころがった。誠司はクッションを腰にあて、座りなおした。
「あたしって自分で自分を追い詰めたんだよね。ほんとに馬鹿なことしちゃった」
「あれはな。客が動画をとってたら一巻の終わりだったな」
「そのことも考えて、ぐずぐずしないように言われてた」
「それは絵美を思ってか? 今もその気持ちを信じてるのか?」誠司はすこしも答えを待たなかった。「帰りはあの女の車だったんだろ。父さんもなめられたものだ。他の客も、井坂くんも。みんなそうだ」
誠司は我知らず、立ち上がってベランダに近づいた。カーテンの向こうを見ようとしたのだ。しかし、相田千佳はそこにいない。いる必要がない。
裏切りによってすべてをぶち壊されたのだ。誠司はもはや一言も意見しなかった。絵美は信じるしかなった。絵美が抱いていた疑念や後悔。あんなこまっしゃくれた女をなぜ、と思えば理解しがたいものだが、絵美が最初から愛情を残していたからだとすれば納得もいく。誠司は思った。幼いわが子。自分が手がけた店。そこへくる客たち。そして共に戦ってきた夫。肝心な場面でよそ見した夫。それを上手に隠せなかった夫。今は避難先からもう一度愛情を取り戻そうとしているのかもしれない。愛とは、すなわち信じる気持ちなのだろう。それで苦しんでいるのか?
裏切った二人が関わっていないというのも、こちらの信じる気持ちでしかないにちがいない。こんなかたちでそれを強いられている絵美にとって、きっと信じるとか信じないとかの議論はすでにどうでもいいのだ、と誠司は思った。