第12話
文字数 1,226文字
絵美が出かけようとしているとき、ひらひらした蝶々みたいな人間や、ピンクとグリーンの夢みたいな車があらわれるかもしれないと考え、誠司はベランダに出て地上をくまなく見ていた。
やはり何も言わずに絵美が外出すると、誠司も靴紐を結びなおして外に出た。絵美がバスやタクシーが行きかう車道に向かっている様子だったから、スマートフォンの時刻を見て、十時三十分が約束の時間なんだなと推測した。それにはあと四五分だった。
十メートルほど前方に黒いモノトーンのSUVが停車した瞬間、当てが外れた、どういう関係の男だ、と誠司は思い、冷たいものが背筋を這い上がった。しかし、そこで一拍足を止めたにもかかわらず、運転席を見据えてどんどん距離を縮めた。
「――絵美!」
絵美は驚き、もたもたしていたが、黒のキャスケットをかぶっている小柄なあずみは、余裕のある表情で笑ってベビーカーを積みこませた。あずみは絵美とかえでをリヤシートに乗せ、短くクラクションを鳴らしてUターンした。
その日は絵美が帰っても一時間以上口を利かなかった。実際、黙っていればそのまま夜が過ぎ、明日にはよそよそしくも、親子としての挨拶を交わすくらいはしただろう。
「お父さんのほうが冷たいじゃない。おかしいよ。何が気に入らないの?」絵美は軽蔑をあらわに言った。
自分なら一目でわかることが、絵美にはまったく理解できないことが、我慢ならなかった。まだあの女のところにいたのかと問いかける誠司は震えていた。それだけならまだいい。絵美はあずみと二人で浮気相手のところへのりこんだのだ。そうにちがいない。あの女が言い出したのか? それとも絵美のほうから? そんなどうでもいいことまで絵美は献身的に隠した。
もう我慢の限界だった。「本当ならいまごろ死んでたんだ! おまえがこなければここで首をくくって死ぬつもりでいたんだ!」誠司は腸を煮えくり返らせながら思いの丈を吐き出した。勢いにまかせてとはいえ、訂正する気持ちは微塵も起きなかった。
「あたしはどうして死ぬつもりでいる人と言い争いなんかしてるんだろうね。お母さんがいなくなってどれだけ経ったと思ってるの」
そんな言葉では届かないとみるや、絵美は即座につづけた。
「じゃあ今すぐ死んでみてよ。本気で死ぬ気があるならとっくに死んでるよね」
死にたいとこいねがう気持ちは、正真正銘の、自分の内奥からあふれ出す本物の感情だった。いま、誠司はそれをどこにも感じることができなかった。怒りがひけばまた死にたくなるだろうし、今後は以前にもまして高まりを見せるにちがいなかったが、今はさながら、死体も同然になって立ち尽くしている人形だった。
絵美は目を擦りながら「おはよう」と言ったとたん、ほら見ろといわんばかりに侮蔑のまなざしを向けた。「ちゃんと眠れてるの。お父さんには朝が早すぎるんじゃないの」
絵美は笑ったが、誠司は絵美のように自分を笑うことができなかった。そこが二人の違いだった。
やはり何も言わずに絵美が外出すると、誠司も靴紐を結びなおして外に出た。絵美がバスやタクシーが行きかう車道に向かっている様子だったから、スマートフォンの時刻を見て、十時三十分が約束の時間なんだなと推測した。それにはあと四五分だった。
十メートルほど前方に黒いモノトーンのSUVが停車した瞬間、当てが外れた、どういう関係の男だ、と誠司は思い、冷たいものが背筋を這い上がった。しかし、そこで一拍足を止めたにもかかわらず、運転席を見据えてどんどん距離を縮めた。
「――絵美!」
絵美は驚き、もたもたしていたが、黒のキャスケットをかぶっている小柄なあずみは、余裕のある表情で笑ってベビーカーを積みこませた。あずみは絵美とかえでをリヤシートに乗せ、短くクラクションを鳴らしてUターンした。
その日は絵美が帰っても一時間以上口を利かなかった。実際、黙っていればそのまま夜が過ぎ、明日にはよそよそしくも、親子としての挨拶を交わすくらいはしただろう。
「お父さんのほうが冷たいじゃない。おかしいよ。何が気に入らないの?」絵美は軽蔑をあらわに言った。
自分なら一目でわかることが、絵美にはまったく理解できないことが、我慢ならなかった。まだあの女のところにいたのかと問いかける誠司は震えていた。それだけならまだいい。絵美はあずみと二人で浮気相手のところへのりこんだのだ。そうにちがいない。あの女が言い出したのか? それとも絵美のほうから? そんなどうでもいいことまで絵美は献身的に隠した。
もう我慢の限界だった。「本当ならいまごろ死んでたんだ! おまえがこなければここで首をくくって死ぬつもりでいたんだ!」誠司は腸を煮えくり返らせながら思いの丈を吐き出した。勢いにまかせてとはいえ、訂正する気持ちは微塵も起きなかった。
「あたしはどうして死ぬつもりでいる人と言い争いなんかしてるんだろうね。お母さんがいなくなってどれだけ経ったと思ってるの」
そんな言葉では届かないとみるや、絵美は即座につづけた。
「じゃあ今すぐ死んでみてよ。本気で死ぬ気があるならとっくに死んでるよね」
死にたいとこいねがう気持ちは、正真正銘の、自分の内奥からあふれ出す本物の感情だった。いま、誠司はそれをどこにも感じることができなかった。怒りがひけばまた死にたくなるだろうし、今後は以前にもまして高まりを見せるにちがいなかったが、今はさながら、死体も同然になって立ち尽くしている人形だった。
絵美は目を擦りながら「おはよう」と言ったとたん、ほら見ろといわんばかりに侮蔑のまなざしを向けた。「ちゃんと眠れてるの。お父さんには朝が早すぎるんじゃないの」
絵美は笑ったが、誠司は絵美のように自分を笑うことができなかった。そこが二人の違いだった。