第40話

文字数 1,461文字

 絵美がかえでをだっこして、手提げかばんをつかんだ。
「この子をお風呂に入れないと。お父さんも今日は早く寝たいでしょ」
「さきに入れ。入っていくだろ?」
 絵美はすぐさま風呂場から戻ってくると、考え深げに言った。
「やっぱりあとで自分の家に帰る」
「――何かとりに帰るものがあるのか」と井坂が意表を突かれた様子で言った。「だったら今夜は帰らないほうがいい。荷物はおれがとってくる」
 誠司は両手を頭にやって仰け反り、ちょうど大きく息継ぎをしたところだったから、それはいかにも不承不承というかんじの同意となった。誠司は風呂場の方へ声を張った。
「井坂くんのいうとおりだ。絵美は外に出ないほうがいい。ここにいなさい」
 返事はなかった。絵美は寸暇を惜しむようにキッチンへいった。
 井坂がお茶を持って戻ってきた。どちらもなかなか口を開こうとしなかったが、誠司の方がさきに心配になって、相手の顔を見た。
「大丈夫か? また今からいくんだろ」
「まあ仕事はなんとかします。でも、一緒にいてやれないのが不安で」
「絵美に任せておけばいい。私もいるんだし、こっちで何とかするよ。とにかくそんなところに立ってないで座りなさい」
 井坂はそれでもソファーの上のトートバッグに視線を注いで動かなかった。誠司は警察に通報しないという二人の判断に任せた。たしかに、子供の傍にいてやる以外に、自分たちにできることなど何もなかった。
「身から出た錆でしかないですよね」
「それは絵美も同じだろう。私だってそうだ。情けないな。さすがに反省したよ」
 井坂がうつろな顔で誠司を見た。死のうと考えていた自分に、まだこんなことが待っていようなどとは思いもよらなかったが、それを今ここで話したいとは思わないし、井坂のほうでも何も聞かなかった。
 二人ともくたくたに疲れ果てていた。だが、それは今日一日のことではなく、これから先を思わずにはいられないからだった。子供は関係ないと高を括っていられるのか。終わりはくるのか。なんらかの異常にとり憑かれているのか。しかし、たかが小娘に足を掬われていてどうする?
 誠司は、ふと苦笑し、弦が折れた老眼鏡を見せて、どうしようもないというふうに首を振った。かえでの仕業だった。あるいは、すでに折れかけていたにちがいなかった。井坂が期待したようには笑ってくれず、それどころか、平身低頭の姿勢に拍車がかかる一方だった。
「きみはちゃらちゃらした格好をするわりに、ずいぶん打たれ弱い面をもってるようだな」
 浴室のシャワーが水しぶきを立てている。かえでの気配に耳をそばだてている二人のことを知らない絵美が、一人でばたばたしている物音。水しぶきがとまり、やがて浴室のドアが閉まった。
「さっきの話じゃないけど、兄弟がいなかったんです」
「私だって一人っ子だよ。母には溺愛された」
「どんなお母さんだったんですか」
 誠司はぷつりと糸が切れたように押し黙ると、自分がもう何も話さないだろうことを悟った。齢を重ねてから、そう考えるようにしたのだった。大切にされたと考えるほうが楽だった。母との事実関係がどんなものであったにしろ、それを自分以外の誰かに理解できるとは思えなかったし、理解してほしいとも思わなかった。何十年間もそうやって生きてみると、母なしでやってきたことが、心地よく感じさえするのだった。
 井坂が浴室をのぞきにいった。いくらなんでも、無言で消えた井坂がまだどこかに潜んでいたりはしないので、今日一日のテレビニュースをむさぼるように吸収しているうちに、母のことも忘れた。
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