第67話

文字数 2,929文字

 誠司が駅ナカのベーカリーに入り、イートインのほうを見ると、友達を見送った絵美がすこし放心した様子で待っていた。「ダージリンティーだったかな。じゃあ同じでいいんだね」しばらくすると、絵美がそれを買ってきて、横の席に座った。
「阿江さんの家にいたんでしょ。そうだと思った」
 誠司は、このあいだの大学生の孫のことを話した。学校やアルバイトや、大人に混ざって生きている者がたいてい直面する、たのしくて、もっともな疑問の数々。誠司はまたなにか険悪なものを感じていながらも、話しつづけた。絵美にはすこし休憩が必要だった。
「またはやめて。そんな言い方されたら話せない」
「だけどこのままじゃ帰れないんだろう。それは何だ」
「これは――二人におみやげをあげたから持ってるんだけど」
「何が入ってる? いいから早く出してみろ」
 絵美が「これ」と言って、シックな赤のジュエリーケースを紙袋からとり出した。
 誠司は軽いショックを受けた。「指輪か。前のやつを捨てたのか」
「ちゃんとあるわよ。それはピアス。みんながいるまえで渡すからもう大変だった」誠司がその小さな箱に触れようとしないので、絵美はあきらめて先をつづけた。「しかもあいつ手紙を書いてたの。浮気のことまで書いてあるからまだちゃんと読んでないけど、車の購入資金だって。そんなお金がどこにあるのよ」
「これから働いて返すんだろ。たしかに車が必要だろうな。いいじゃないか」
 誠司は薄く笑いながらジュエリーケースを押し返した。
 突然、絵美がじっと目の中を覗き込んだ。「お父さんのお金じゃないよね?」
「それで素直になれないと――そういうことか」ようやくここに呼び出された理由がわかってきた。「反則だって言いたいのか。まさかまた喧嘩したんじゃないだろうな。そうなのか。自分が商売だとか何とか言っておいて、また人前で醜態をさらしたのか。いい年して、恥の上塗りとはこのことだな」もう笑うしかないらしい。早く親の顔が見たくてうずうずしている輩が、今もって居座っているにちがいない。「父さんは口出ししてない。まったく何も聞いてない。そのピアスもあるのに一円でも出すと思うか」
「そうだよね。まあ、あいつもそう言ってた」
 誠司はティーバッグをとり出さずにガラスのカップをすすった。緊張の糸がほどけたのだろうか。
「いま帰った友達はなんて言ってた」
「こんなこと話せると思う? まだ片づけだって残ってるし、かってに車とか決めて、あたしの給料はどうなってるのよ」
「そんなものをいちいち分けてたら、それこそ雀の涙しかのこらない。それをなんて呼ぶか知ってるか? 一蓮托生だ」
「じゃあお父さんもそうじゃない」絵美は笑った。「ほんと、お父さんにはやられたわ。ここまであたしのために時間を割いてくれるなんてしらなかった。そんな人じゃないと思ってた。あたしは最初からお父さんのところへいけばよかったんだ」
 絵美はいくつか悪いことも言ったが、それは感じたことを感じたままに話しているにすぎなかった。誠司は頃合いを見て、まだ仕事が残っていることを思い出させた。
「これでわだかまりがとけただろ。二人でゆっくり話せばいい」
 絵美がカップを返しにいき、ありがとうと言うのを聞いて、誠司は自動ドアをくぐった。
「なんとなくお父さんに丸めこまれちゃってたからね。あたしはぱっと気持ちを切り替えられるタイプじゃないの。こういう状況だととくにね。なにか言いたそうな顔してない? そういうのあたしだけじゃないよね。お父さんにもわかるよね」
「今も考えるの?」
 誠司は口角を上げて謎めいた顔をした。絵美がにっこりとした。
「ゆっくりでいいよね」
 土曜日の午後三時を回った駅前は、急いでいる者をさがすほうが難しかった。誠司は上着の中でスマートキーの輪郭をなぞりながら、「いってくるよ」と言った。絵美の笑顔がういういしくはじけ、小走りに駆けていった。
 なぜ、自分のマンションに帰ると言っておいて、バーへ連れていこうなどと考えたのだろう。子供を見世物にするなと言っていたのは、いったいどこの誰だった? 浮かれていい気になって。孫をだしに自分までサプライズしたくなった? こんな日だからこそ警戒しなければいけないのを、誰よりも一番よくわかっていたのに――
 スマートフォンはすでに相田千佳に奪われていた。あったとしてもこなごなに打ち砕かれたのだ。使い物にならない。いまも妻の画像やメッセージが失われた事実が頭の隅で明滅していた。だが、誠司はそのことよりも、繁華街に近づいて監視カメラに足跡を残せないかと必死に考えていた。かならず逃げ出す方法が、隙があるはずだ。
「このまま走ってていいのか。どこへいくんだ」
 何もしゃべらない気だなと思いかけたころ、後ろにいる相田千佳が口を開いた。
「警察にとびこんで助けを求めてもいいけど、こっちはその場でどうとでもするから。わかるよね」
 誠司は、内装まで黒ずくめのSUVの運転席から、わかってる、と短く返事をした。
 もっと時間を稼がなければ。今かえでを助け出せるのは自分だけだ、と誠司は思った。
 ところが、行き先はすぐに決まった。
「あんたのマンションにいって」
 誠司は自分を激しく呪った。
「どうしてあんなバーの近くにいたんだ。そっちだって危険を冒したくないだろう」
 何もしゃべろうとしない。
「私がまっすぐ家に帰るとは考えなかったのか。いつまで待つ気でいたんだ」
 すると、相田千佳がぷっと噴き出した。「馬鹿だね。あんたはとんでもない間抜けだよ」しかし、そんな気分になれないのはこちらと同じらしく、長くはつづかなかった。「自分がとちったくせに。それわかってて言ってるの」
「遊ぶ金は十分にあると聞いてるが」誠司はすかさず言葉を重ねて、じりじりしながら反応を待った。「もっと欲しくないか。好きなものを買ったり、海外旅行をしたり。すこし時間をくれたらすぐに用意できる」
「あんたはからかってるつもりかもしれないけど、そんな余裕なんかないんだよ。もっと状況を考えて」
「からかってなんかいない。こっちは本気で従うといって――」
「うるさい! あたしをいらつかせてひどい目に合うのはそっちでしょ。従う気があったら黙ってろ。頭つかえよ」
 特別仕様車の運転席ががくんと揺れた。相田千佳が、組んでいる足をほどいて蹴ったのだった。誠司が目をやると、相田千佳はスモークがかかった外を見て、頬杖をついていた。
 それだけは核心を突くようで触れてはならないと思っていたことを、誠司はついに言った。「何が目的なんだ?」
 返事はなかった。
 誠司はもう何十回も何百回もルームミラーを見た。相田千佳がかえでの口に卵ボーロを一つ入れたときは、かえでの大きな目がほかの大人をさがしているのを、なすすべもなく見守っていた。相田千佳は誠司にシートベルトを締めさせると、かえでを抱いて後部席にすべり込み、チャイルドシートのベルトを慣れた手つきでとりつけた。チャイドシートも黒のレザーだった。
 マンションまであとわずかしかなかった。誠司はまったく何もできていなかった。置き石も。何らかのシグナルも。ただ言われるがままに車を走らせていた。
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