第56話

文字数 1,052文字

「ほんとにやるのか。いったいどんな話になってるんだ」
「いつもより早くから開店して、みんなにきてもらうだけよ」
「何から何まで準備してもらえるパーティーじゃないだろ? だったらいつもと同じ仕事じゃないか」
「あたり前よ。こっちは商売してるの」
「しかし自分の復帰パーティーなんだぞ。主賓なんだぞ」
 それが、夫の浮気と、自らの酒乱をさらした襲撃後の、一日目にする仕事だなんて――。まさか客寄せのための猿芝居だったとは思わないが、言えば激怒するのが目に見えているから聞くわけにもいかず、頑固に靴を履いたまま絵美が出てくるのを待っていた。「帰りにお父さんの分も渡すから忘れないで」絵美は水を飲み、スパイスを曳いてつくったカレールウをかばんに詰め込んだ。
「香りが強いものってこんなときしか出せないのよ。いちおうやってはみたけど、こうまで手こずるとはね」
「メニューに出せないもののために一からつくるのか」
「よろこんでもらうためよ」
 誠司は、電飾をからみつけた看板を見上げると、蛙やとかげが脳裏をよぎって立ちすくんだ。絵美は厨房へいって、店主のアドバイスを片っ端からメモした。
 絵美が「なににする?」と厨房の熱で顔をてらてらさせて尋ねると、誠司は観念したように、辛くないものなら何でもいいと言った。おかげでその日の昼は、本格的なエスニック料理だった。
 そこを出て、スパイスの専門店に向かっていた。絵美が、帰りは自宅で降ろしてほしいと言った。
「ねえ、どうしたの。うちでもなんか様子がおかしいんだけど」絵美は知らないふりをして聞き出そうとしながらも、すぐにうんざりしてしまったらしい。「昨日あたしの電話が何回なったか知ってる?」
「明日もどこかいくのか」
「ごまかさないで」
 老いた親がハンドルを握り、方々へお供しているのに、この言われようとは。
「ねえ。今あたしがなにを考えてるか知りたい?」絵美はなおも負けじと挑みかかってきた。「お父さんが浮気されたみたいだなって思ったの」
 じっと見られているのはわかっていたが、誠司は気にしないことにした。図星を刺されてもしかたないと思っていた。たしかに昨夜のあれはたいした切り返しだったからだ。誠司は相手を侮りすぎていたし、いまにいたるまで身を守ろうとしてこなかった。やつはそこを見事に突いてきたのだ。誰にも聞かれなかった。やつが二度と蒸し返さないこともわかっていた。
「元気出してよね。こっちまで調子が狂うからさ」絵美は誠司が疲れているのを見てとり、ため息をついた。「やっぱりバーで降ろして」
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