第58話

文字数 1,116文字

 一人でバーに戻ると、絵美がめずらしく客席に座って休んでいた。しゃべりたければしゃべればいいし、何も話したくなければ話さなくていい。スツールに腰かけた誠司には、どこかやさしい威厳が漂っていた。
「何かたくらんでるでしょ。みんな嘘が下手ね」
「どうした」
「なんでもない」
 絵美が上を向いて、ティッシュで涙を拭いた。
「がんばりすぎだ。誰だって簡単にはついていけないだろう。あれに勝とうとしたって駄目だ」
「そんなことくらいわかってるわよ」
 あと少しで四時だった。一分たりとも子供に寂しさを味合わせたことのない親たちは、とっくに保育園の門前で待機しているはずだった。
「ちゃんと話すつもりだったんだけど。相田さん? 夜に家にきたの」
「なんだ。それを知ってたらもっと話がはやく済んだのに」誠司は絵美の気をそらそうとしておどけてみたが、とりたてて効果はなかった。「父さんが警察に届け出をしてきたのは二日前だぞ。それでも反吐の臭いがする廊下で長い時間待たされただろうがな。自分で警備をつけてくれと言われなかっただけ、丁重に扱ってもらえたほうなんだろうな。忙しいのはどこも同じだからな」
 誠司はまったく気持ちとは裏腹に、弱々しく微笑んだ。客の一人に警官の知り合いがいるというので、協力を仰いだのだが、おかげで余計に待たされたし、そんな私立探偵みたいに都合のいい警官もあらわれなかった。誠司は警察署で客の男と陰気な世間話をして、帰りは雨にまで降られた。
「何もされてない。あの人がかえでに久しぶりだねって言ったときにふっ切れたよ。向こうもあたしが平然としてるのが期待外れだったみたい」
 客に見つかってその場しのぎに迫られたにちがいない。そのことを絵美はまったく重要視していないようだが、今は考えないことにした。
 案にたがわず、絵美は井坂に話していなかった。絵美が「あいつに話す?」と尋ねるので、誠司は当たり前だと言ってやった。
「だよね。そう言ってくれると思った。やっぱり体力が落ちたみたい。ねえ、あたし妊娠してから怒りっぽくなった? いらいらしてるように見える?」
「いいや」と誠司は言った。「それよりまだ〝あいつ〟なんて呼んでるのか。二人で仕事をはじめたときにどうするんだ」
「わかってるよ。あの人どんどんおかしくなっていくみたい。あたしも一緒におかしくなると思いたいのかもしれないけど、こっちは子供の人生がかかってるんだから」
 絵美は自分に言い聞かせるように言うと、もう一度ティッシュをあてて立ち上がった。
「車のキー貸して。はやく」
 誠司がスツールから下りるより早く、絵美が鍵を奪いとった。井坂が絵美とすれ違いざまに入ってきた。
「迎えにいったよ。心配いらん」
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