第55話

文字数 1,623文字

 最初は、客に浮気の一件が知れ渡っても、井坂にたいする敬意があり、井坂にしたがっていると思っていた。しかし、ある日突然無職になって訪ねてきた絵美が、飲み屋でただ働きしていると打ち明けたときに想像したより、彼らはずっと落ち着いていて、礼儀正しかった。こんなことがなければ交流しないような上品な客まで、気さくに言葉を交わして飲んでいった。よろこびや分かち合いの心が溶けあう場所をたくさんの人が必要としている。なにより、彼らにも一緒に店をつくり上げてきた思いがあるのが、誠司にとっては一番の驚きだった。
 誠司は元の通りの反対側にきていた。バーの明かりがビルの下から見えている。「まったく大きなところを借りたものだな」――井坂は何も言わなかった。
 絵美はどうしたってあそこに帰るしかない。そして、たとえ数ヵ月でシングルになり、子供を抱えて親元に帰ったとしても、それが絵美の人生になるのだ。
「最近孫のことをよく聞かれる。みんな見なくても知ってるんだな」
 井坂が横に立って周囲を警戒した。遊びたければ好きなだけ遊べるものを。誠司は両手で顔をごしごしこすっている井坂が急に哀れになった。
「今までこんなに人を頼ったことがなくて。うまく言えないんですが、お父さんにはほんとに感謝してます」
 誠司はとび上がらんばかりに言った。「こんなところで、やめないか!」
「もうしません! 二度と浮気なんか」
「やめろ! 誰に誓いを立てているんだ」誠司は我を忘れていきり立った。「私に謝ったってなにも変わらないぞ。私が絵美を思い通りにしてるなんて考えは捨てろ」
「そんなこと思ってません」
「じゃあ絵美の気持ちはどうなんだ」
「正直よくわかりません」
「なんだって?」
「先のことはわかりませんが、子供のためにお金だけは自分で稼ぎます」
 いったいこの男は誰としゃべっているのだ? 働きすぎて悪夢のような幻覚でも見ているのか?
「以前に私が言ったことを根にもっているのか」
 しかし、井坂はもう何も聞いておらず、ゆらりと首を傾げて一歩近づいてきた。
「ほんとに、お父さんにきちんと礼を言いたかったんです。お父さんがいなかったらバーをつづけられなかったかもしれない。いや、まちがいなく潰れてた。いろんな面で助けてもらって。今があるのも全部お父さんのおかげです」
 何を話しているのかさっぱりわからなかった。あろうことか、井坂は二度と浮気をしないと言って頭を下げた。それは誠司がもっとも考えないようにしていること――ほかの女と寝た事実をあらわしていた。けっして酒を飲みながら女といちゃついたくらいに考えていたのではないのだが、その瞬間、誠司は思考を無にした。
「私に喧嘩を売りたいんだな」
「ちがいます」
 では、殴られてよろめきもしない自分を見せつけようというのか?
「そこをどけ! こんな年寄りを消耗させたって決着なんかつかないぞ!」
 それでも井坂は深刻は表情で追ってきた。
「浮気を認めていると思うな! あきらめているのかいないのかどっちだ」
「それは――努力はしてます」
「からかうんじゃない! 君ってやつは――」
 誠司は木の椅子を乱暴につかむと、壁に寄せ、足を組み、誰一人近づけさせなかった。誠司は、運ばれていくアルコールや料理を見ているうちに、また、話し声や音楽を聞くうちに、いよいよ興奮した。やつは恐ろしいまでに内面が独りぼっちだ。親が死んだ夜ですら何食わぬ顔で客と話せるにちがいない。あくまでやつの場合にかぎってだが、それが正しいことも、誠司は腹立たしくてならなかった。
 あんな青二才が、あんたに一目置いているだと? 感謝しているだって? それだけではない。絵美の気持ちがわからないとも言ったのだ。あれは馬鹿げて見えるほど、何においても厳密で、真面目くさった、当世風の奇妙な態度のひとつなのか?
 たかが娘婿の浮気じゃないか、と誠司は思った。しかし、すでに誠司にとっては、まちがいなくそれ以上の何かだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み