エピローグ 3 完

文字数 3,653文字

 窓の外が真っ暗なのに誰も帰ろうとしなかった。一定に保たれているはずの室温まで少し下がっていた。ありったけの照明をつけている店内は、井坂と絵美がいないためか、どこかがらんとして見えた。それでもそこら中を華やかにしている飾りつけや植物が、床のごみが、昼間の余韻を楽しかったままに残していた。
「やっぱり事情聴取からだろうな。それから確認作業にはいって、病院側の対応もあるだろうし、いくらなんでも今日中には――。小さい子供がいるからって帰らせてくれるか」
「どうだろうな。でも、そこは絵美さんだってわかってるよ」
 誠司はたちまち青ざめた。そんなことをしていたら、明日になろうといつまで待たされるかしれない。しかし、まったくその通りなのだ。すでに時間切れだ。
「私が連行されていくのを見たのは誰だ?」
 彼らは、その言い回しに失笑した。
「そういえばあいつにも知らせてやらないとな」
「ニュースになるまでほっとけよ」
「――私が知ってる相手か? どこで働いてる男だ?」
「あいつのことは気にしないでいいですよ」
「そうはいかない。みんなに知らせてくれなければ、今ごろどうなっていたか」
 しかし、GPSのおかげだと彼らは言ったし、絵美がきちんと見守りサービスに加入していたからこそ、助けられたのだった。誠司は思わず、唇がはれ上がっているかのようにまごついてしまったが、意識ははっきりとしていた。
「まだここにいますか」
 それには、べつの女が「どうして病院にいかないの?」と聞き返した。
「絵美さんがいなくなるから。かえでちゃんが一人になるだろ。それで」
かえでの名前が出ると誠司がびくりと反応した。誠司はもういてもたってもいられずに雑念を追い払った。
「今日のことはすまなかった。こんな日だからこそ連れてくるべきじゃなかったのに。私まで浮かれてしまって」
 しかし、まったく伝わらなかった。まさか警察に罪を問われると思っているのか? 自宅を抜け出したことで? 誠司は、そんなことはどうでもいい、と言い返した。
「――いったいなんのことですか」
 ふらっと学校の研究室をのぞいてきた以外は、ここで早い昼を食べていたし、午後の騒ぎに中でも何かとつまみ食いをしていた若い男が、はじめて中心に立って発言した。すかさず須藤が言った。
「かえでちゃんと一緒に泊めてもらえばいいのよ。それともうちにくる? 同居でよければだけど」
 そこからは、須藤ともう一人の女性が加わって、宿泊場所やら下着やらの問題が話し合われた。いつの間にか、かえでの年に近い幼児をだっこしている者までいて、笑顔が絶えなかった。この年になってコンビニのパンツを買うなど考えもしなかったし、人様のものを借りるのは論外だった。とにかく他人の家の厄介になることはない。着替えなどまったく必要ない。どうしてそれがわからないのだろう? 誠司はさんざんなからかわれようだった。
「今日は、浮かれた年寄りがしでかしたまちがいのせいで、迷惑をかけてすまなかった。今までだって、世話になってるのに、こんなかたちではじめて孫に会わせた。失礼を詫びさせてくれ」
「あの、わかってますよね。そうやってる間は、絵美さんがマンションでのことを話せないから無理なんですよ」
「やせ我慢するばかりがいいこととは思えませんね」
 男たちが眉をひそめ、警告するようにたがいを見交わした。誠司はしかつめらしい顔をして、油断もすきもないと言わんばかりに手を払った。
「そこに何かあるんでしょ。服に血がついてるのを見ましたよ。切られたんですか」
「時間をおくと雑菌がはいってあとで長引くかもしれない。しばらく休業するにしても、絵美さん一人にのしかかるし、まずいでしょ。やっぱりかえでちゃんが一人になってしまう」
 誠司はとってつけたような笑顔をつくり、ぶるっと体をふるわせた。はじめて手にしたおもちゃだったのだろう。かえでが緑色の小さなものを高くもって見せにきたが、さっきまで誠司の膝にしがみついて眠っていたのだ。最初こそいやいやをして誰にも抱かせなかったのが、今は嘘のように元気いっぱいだった。誠司の全身に安堵が駆け巡っていた。
「すっかりおじいちゃん子じゃないですか。ちゃんと傍にいてあげないと」
「今日一日我慢すればよかったんだ。私がかえでをここにつれてこなければ、こんなことはすべてなかったんだ」
「まだ言ってるよ」
「マスターに謝るのがよっぽどつらいんじゃない? いまのうちに少しは聞いておいてあげたら」
 誠司は体力が尽きているのを悟った。急な角度の外階段が脳裏をよぎったが、自分がそこをどうやって運ばれていくのか見当もつかない。このうえ彼らに孫を預けようとしている自分の気がしれない。
「絵美さん助けてよ」
 ちょうどそのとき絵美が近づいてきた。艶のあるカッパー色のブラウス、上体を引き立てるダークブラウンのパンツ。ゆったりと襟を立てている。「パールのピアスだあ」と声が上がった。誓いと献身――耳につけた美しい石を誰もがそう読みとっていた。
 ――これでも本当に死にたかったのだろうか? 誠司は、夫のもとへとはやる気持ちをうけとめて、自然に微笑みかえした。
 絵美はかえでのほっぺたにキスをすると、須藤に抱かせた。絵美はピアスをはずして大切にしまった。
 子育て中の男たちが、家庭内の苦労をはなしはじめると、あとはもういつものごとく、さまざまな知見が飛び交った。そこは女にだって言い分がある。もっとも、人の数だけ、生きた分だけあるのだ。かえでまで早くも言い出しているくらいだ。その子供に負けず劣らず、大人たちが豊かな表情を見せびらかしている。得意げに。押し合いへし合いして。誠司はちょっとした問いかけに同意した。束の間の沈黙があった。
「そんなまじめな話をお父さんにきいたって駄目よ。適当に返事してるだけなんだから」――ほら、あの話してよ、お母さんから庭仕事をたのまれたときのこと、と絵美が急にせがんだ。その話というのは、昔まちがって動物の餌を庭に蒔いてしまったことだった。アワやヒエがあっただろうか。イネ科の植物が生えてきた時点でわかっていたにちがいないのに、妻はそんなものまで楽しんで育て、収穫し、またあるものは、もっと広い場所に植えなおして花を咲かせていた。
 絵美が話し、誰もが笑った。温かい眼差しが、誠司はくすぐったかった。今日はじめて知り合った者。ここでしか会ったことがない者。みんな入り乱れて、ふたたび会話が活気づいていた。――私が忘れていたのはこういうことだった。
 誠司はふいに日常の感覚をとり戻して、かえでを預かってくれる女性の名前と電話番号をカードに書きとめ、絵美に渡そうとした。それはいつでも今日の証言をするといって客が置いていった名刺だった。絵美はスマートフォンを見て言った。「遅くなりすぎたね。早くいかないと」現場に救急車とパトカーがかけつけて以来、井坂にかわって事情を話している男から一度も連絡がなかったのに、ここへきていくつか着信がはいっていた。まちがいなく警官からだった。
「もう片づけなくていいわ。明日か明後日には時間ができるでしょ。もう一度ここでぼんやりしたいのよ」絵美はそう言って、今日を懐かしむように見回した。誰も異を唱えなかった。絵美が急に肩の力を抜いて、ため息をついた。それはやさしさに溢れた、とても女性的なしぐさだった。
「たぶんお父さんよりあたしのほうが先に帰れると思うよ」
「そうだな」
「じゃあ先にいくわね」と絵美はみんなのほうを向いて言った。「あたしがいかないとお父さんが病院にいけないから。戸締りもおねがいしていい?」
 おそらく私がみんなに感謝の気持ちをつたえなければならないのだ。しかし、それも絵美がきちんとやってくれた。かえでが警察署で一夜を明かす不安もなくなった。あとはすっかり任せてしまえばよかった。
 絵美とはあらためて話すことになるだろう。相田千佳がしたことに絵美が責任を感じるのは間違っているといってやらなければいけない。それはいまここでできない話だ。二人きりでなければ言い表せないことがある。ただし妻にだけは今すぐ謝らなければいけない。
「大事な日を汚してしまってすまない」
 絵美が首を振った。
「さっきからこんなことばっかり」
 しかし、絵美にはちゃんとつたわっていた。「いまの絵美を見ていると母さんを思い出す。心配しただろうな。こんな私を母さんは許してくれるか」
「許すにきまってるじゃない。あたり前よ」
 かたくなな人だなあ、とどこからともなく声がすると、さざ波のように笑い声が広がった。絵美もくすくす笑っていた。
「あたしのお父さんだからね」
「かえでが今日のことをおぼえてなければいいんだが」
「あたしがいつか話すわよ」
 絵美が最後にありがとうと言った。誠司はそれを聞きながら、いつまでもここにいたい、みんなが幸せになればいいと思った。
                         ―――――了
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