第31話

文字数 1,259文字

「やっぱり自宅から通えるところにする」と絵美が言った。
「もう喧嘩しないんだな。それがいい」
「べつにお父さんを安心させようとして無理してるわけじゃないから」
「百も承知だ」と誠司は寂しく笑った。「子供のために?」と問いかけたら、絵美が否定できないのを知っていたからだ。
 誠司はついていくつもりだったが、保育園で必要なものの買い出しには一人でいくと絵美が言った。「井坂くんといくのか」――ちがうらしい。しかし、直前になってばたばたと状況が変わり、時間をつくれることがあるのだろうか。
 かえでのぷくぷくの手が、むぎゅうっと誠司の顔をつかんだ。誠司はおたおたとティッシュに手を伸ばし、自分の口を拭いた。
「よく笑ってるでしょ」絵美が「かえでー」と言って高く抱き上げた。「おじいちゃんに感謝してるんだよね!」
 かえでの手から滑り落ちた積み木が誠司の頭を直撃した。突然、いたいのいたいのとんでいけがはじまった。誠司はごっと音を立てた頭をさすらないではいられなかった。
「休憩をとって帰ってくるんだけど、座るとすぐにうとうとするでしょ。もっと時間をとって遊んでやりたいみたいだけどね」
 二人はかえでをつれて大型スーパーに出かけた。
「晩ご飯、うちで食べていくよね」
「一度電話してみろ。井坂くんが帰れるかもしれない」
「帰れたらなに?」絵美は電話で手短に話すと、誠司にむかって言った。「ほらー今日も忙しいって」
 絵美は、手作りの知育玩具を紹介したムックをとると、自分ごとショッピングカートを端に寄せた。
「かわりにつくってくれたら素直に喜ぶんだけど」
「縫い物なんかできるか。――それは何だ? 何でできてる?」
「フェルトだよ。こういうのもしたいんだけどな」
「やればいいじゃないか。ここに売ってないのか」
 だが、育児関連と台所用品の売り場を見て、洗剤や食べ物を選んでいると、もうそんなに時間がなかったし、気力も残らなかった。絵美は何をするにも誠司を急かした。「ねえ、食べていくんだよね?」
 帰るや否や晩ご飯の支度が待っていた。六時から〝夜時間〟に突入し、六時十五分になると、もう誰かが食事をしていたが、井坂はいっこうに現れなかった。結局、時計の針が七時ちょうどをさしたときに、さすがにくるはずがないとわかった。それは何時間も前からはっきりしていたことだった。
「今日はありがとう。荷物を運んでもらえてたすかった」
 片時も休むことのなかった絵美が、感謝の気持ちをつたえる段になって、ようやくラグマットの上で疲れた足を伸ばした。その時点で、ふかふかのベッドで横になれたみたいに元気をとりもどしているのは、本当に驚くべきことだった。誠司は二人に付き添っているだけでよかった。それで温かい食事にまでありつけたのだから、買い物などお安い御用だった。
「何かあったら連絡してくれ」内容がないわりに大きな声だった。
 ――もっと時間が欲しいか。いつからそうじゃなくなったのだろう? 肉体もろとも、感情までぼろぼろと剥がれ落ちていくものなのか? 誠司は一人で自宅に帰った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み