第36話

文字数 1,354文字

 記憶している保育士の名前や特徴を挙げて、「ちゃんと憶えてますよ」と案内する保育士がこわばった笑みを浮かべると、誠司は急に静かになった。
「どうされたんですか。今朝もいつものようにお母さんがきてましたけど」
 たしかにかえではいた。カーテンを引いた部屋に小さな敷物を並べ、子供たちがすやすやと眠っていた。誠司は中に入ろうとして保育士をぎょっとさせた。いや、もうかえでの安全はまちがいなくわかっている。今あの寝顔をかき乱そうとしているのは自分のほうだ。
 誠司はいよいよどうしていいかわからなくなり、井坂の電話までつながらないのがわかると、フェンスに車を横づけし、座席を後ろに倒した。降園がはじまる四時まで、老いた体に鞭打ってでも、そこにじっとしているしかなかった。気の遠くなるような数時間――。絵美が電話に出た。
 こつ、こつ。
 絵美がウインドウを叩き、助手席にのりこんできた。「なにがあったの?」
 何ひとつ信じられないまま事情をはなすと、やはり絵美も井坂にたいして疑念を抱いた。かえでが中にいるのは確かなので、緊迫したかんじはなく、気まずさが漂った。なぜ憎しみがぶり返すようなまねをするのか? 誠司は電話に出ない井坂を呪った。
「今までどこにいたんだ?」
「保育園にいって、それからあずみさんと会ってた」
「今どこにいるかわかるか。家か」
「しらない」絵美は電話のことになると耳が赤くなるほど苛立った。「いつも電源を切るように言われてるから。だからそんなこといちいち聞かないって」
「おかしいと思わなかったのか」
「それくらいのことで? そんなこと言い出したらみんなおかしいよ。あたしも、お父さんも」
 しばらくの間、誠司は指の背でハンドルをノックしつづけた。
 絵美は相田千佳という名前を聞いたことがなく、心当たりもなかった。
「誘拐なんていうから。手に力が――。あわててとび出してきたんだ」
 何をどうしたのか、うけとったペットボトルのキャップを捻るのが難しかった。絵美が見ていた。誠司は冷たい液体をぐいっと飲んだ。「あー生き返る」今は虚しいばかりなのに、声だけが妙に元気だった。
「あずみさんがここにくるの?」
「たぶん出まかせだろう。あるいはここにきたのかも知らんが――きたところで何ができる? あんな子供じみた女に」
 最後の部分は絵美の耳に入らなかったようだ。
「じゃあどうする?」
「このままかえでが帰る時間まで待とう。あと五十分――四十分だ。ここまできたらもうたいした時間じゃない」
 砂遊びをする子、城砦のような滑り台にのぼる子、力いっぱいぶら下がっている子、たくさんの子供たちが広場を駆け回っている。すぐにあの中にかえでも加わるようになる。
 絵美が傍にいてほっとしたせいか、誠司は急に疲れを感じ、目を瞑った。かえでは中で笑顔を振りまいているだろうか。楽しい歌を歌ってもらっただろうか。そのうち絵本の読み聞かせをしてもらえるだろう。絵美がそうだったようにどんどん成長している。
「信じられないか。向こうから井坂くんに電話してきたって話だったな」
 誠司はシートベルトをひっぱって座席を直した。絵美は黙っていた。まだ何かが言えるような段階ではなかったが、事と次第によっては、絵美の責任を追及することがあるかもしれない、と誠司は思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み