第62話

文字数 2,044文字

 絵美が自転車の女性に呼び止められた。あの様子だとまだ帰りが遅くなりそうだ。誠司はふり返った。自転車の女性もまた、かえでくらいの子供をつれていた。
「絵美を慕ってくる人はたくさんいます。おれなんかより絵美はどうすればいいか知ってるんでしょうね」
「どうした、弱気になって。絵美一人でこの店はやれないぞ」
 今の女性は客じゃないだろ。そう言っても井坂は納得しなかった。
「お父さんがうらやましいですよ」と井坂が研ぎ台を据えて言った。「あの夜、絵美がこの牛刀をつかんだときは、本気で覚悟しました。一人だったら、移転した直後に失敗してたような気がします。結局客をつなぎとめているのは、アルコールでも料理でもなくて、絵美かもしれない」
「なぐさめてるつもりかしらんが、無理に謙遜しないでくれ」
 井坂は、あの夜のバーに誠司があらわれたときほど、肝を冷やしたことはない、と懐かしむように話した。思えば、あのとき警察が立ち入っていたら、今ごろどうなっていたのか? 私が口裏を合わせたから、事なきを得たのか? 「本物の血を流してるやつに何が言えると思う? 考えてもみろ。それを自分の娘がしたんだぞ。――いや、もういいんだ。そんな話は」――駄目だ。これ以上思い詰めたら椎茸みたいに干からびてしまう、と誠司は本気で思った。
 誠司は窓際のソファにころがって休んでいた。絵美が慌ただしくかえでをあずけた。
「――帰る?」絵美が出ていきながら言った。「ちょっと、ちょっとだけ待って!」
絵美はそれから半時間も誠司を待たせた。
「ほんとにお父さんは献身的だ」井坂がこらえきれずに笑った。
 誠司は布巾を手にとり、かえでが着ている袖なしのつなぎ服を拭いてやった。井坂の声に応じて、かえでが弾むように歩くと、心が疼きはじめた。いつの間にか、〝死にたい〟と言った自分がよみがえっていた。
 それは誰とも話したくなかった。絵美に打ち明けたことすら後悔していた。
「――どうして? お父さんは健康だし、生活に不満なんかないでしょう」井坂はそう言い、やがてはっとした。「お母さんですか」
「まあ、そういうことだ。絵美がかえでをつれて頼ってきてるのに、喧嘩ばかりしてた」
 絵美が開いた襟ぐりのシャツとワイドパンツに着替えて出てくると、井坂がその男性的な風貌に人懐っこい笑みを浮かべ、近くにいる誠司に一つ頷いた。「おれはもうすこししてから帰ります」
 誠司は弾かれたように外に出た。また須藤と内緒話をするのか? いったい何をするつもりだろう? あまり自信を見せつけられても、こちらとしてはかえって不安になってくるのだが――
「いっしょに食べればいいじゃない。――じゃあ、あたしがそっちへいこうか」
 ブロッコリーとバナナを素早くえらんだ絵美が、キャベツの山を前にしてぴたりと止まった。誠司がはっきりしないせいで、何をどれだけ買えばいいかがわからないのだった。誠司はうめくような声で言った。
「井坂くんは関係ない」
「何かおかずつくるから持って帰る?」
「そこまでしなくていい」
「じゃあ今買いなさいよ。どうするの?」
 誠司が黙っているから、絵美がもう一度言った。絵美は、近くにいた女性が総菜売り場へ離れていっても、まだ返事を待っていた。
 絵美が六百グラム強の合い挽き肉をとった。
「あまり食べたくないんだ」
「もうっ、さきにそう言えばいいのに!」
 絵美は一人でいたってなんにも面白くないときめつけたが、誠司の考えは違った。誠司は絵美とかえでを自宅で降ろし、あてもなく車を走らせていた。もうじき井坂も帰るだろう。そもそも定休日に仕事をしようって考えがどうかしているのだ。
 ――ひとり? あらためて言われてみると不思議なものだった。もちろん、誠司は自分で洗濯物をたたみ、自分でお茶を入れていた。たしかに一人にちがいない。
 誠司はマンションに帰り、エレベーターのボタンを押した。妻は死んでしまったにちがいないが、今は妻の気配がある。
 妻を亡くしてから一人でしてきた味気ない食事が、得も言われぬ貴重な時間になったのはいつからだろう? もちろん、かえでの世話をしながらする食事も、最高の味つけにちがいない。だが、今夜はちがう。年寄りには一日くらい休みがなくては。誠司はリビングのテーブルの上を片づけた。明日の朝の分も考えて出汁をとり、芽が出はじめたじゃがいもを丁寧にむき、味噌を溶かした。鉄火巻きと魚の干物をいくつか。しかし、魚焼きグリルに火を入れて、はたと気がついた。
 誠司は胃腸に効くドリンク剤を飲んで、目の前にあるものをじっと見た。そして、おもむろにふたをはがしてカップ麺をすすり、いつでも食べられるようにと買ったわかめ入りのおにぎりを、冷たいままかぶりついた。こんなもの毎日食べたいと思わない。だが、なぜだろう。心の隙間を誘惑するのだ。まったくあさましい行いだ――と思いつつ、せっかくだからと、味噌汁にまで手を出していた。
 翌朝、誠司は背徳の味ですっかり元気をとり戻した。
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